第25話 あの悲劇
寝室の窓から風が入ってきて、薄い白のカーテンを揺らした。暗闇のなか、オレンジの樹がゆるやかな丘の下のほうまで広がっているのが見える。寝台は大きな窓の前に設置されていたのだ。
「奴は本当にここに戻ってこないのか」
廊下から話し声が聞こえる。
「そのはずですわ。ウォルターがあんなことをするなんて、思ってもみませんでしたもの。なんて恐ろしい」
ジョリーン・マクリーンがとんでもない、と言わんばかりの勢いで言った。普段から舞台に立っているせいか、彼女のセリフは
扉が開いてポール一人が部屋に入ってきた。錠をおろして、ベッドに近づいてくる。
部屋には明かりがついておらず、薄暗かった。窓から差しこんでくる星のわずかな明かりだけが、この部屋に光を与えている。
客室としては狭い部屋だ。白い大理石でできた胸像が暖炉台の上に置かれている。その胸像の女は星の光を受けて不気味に微笑んでいるように見えた。
「ポール」
私の口から出たのは思いがけず弱々しく震えた声だった。
彼に触れようと身を起こす。腹部に鋭い痛みが走った。
「起き上がらなくていい。聞きたいことがあるんだ。ジョリーン・マクリーンは信用できる人物なのか。彼女がクラインに
ポールがたずねる。
「ジョリーンが?彼女とはずっと一緒にいたわ。ジョリーンがそんなことをする人には見えない。でも今になってはわからないわ……。アデラインもジョリーンと親しいのよ」
「キャシー、しっかりと考えるんだ。アデラインには今すぐには会えないし、これは急を要することだから。彼女は信用できるかい?」
ポールが強い口調できく。
わからなかった。だってウォルター・クラインだって二人きりになるまでは普通の人間だったのだ。それが
私はいまだに頭の中が混乱していて、人間不信におちいっていた。もはやポール以外に信用できる人間はいないような思いにとらわれてしまうのだ。恐怖とトラウマが理性に勝ってしまいそうだった。
「ジョリーンはウォルターの計画を知らなかったはずよ。だってなんでそんなことをするの?でも、彼を
ポールは別荘の女主人に気づかれないように窓から出て宮殿に向かわなければならない、と言った。クラリッサのもとに従者を送ったから運が良ければウォルターは逮捕されるだろう。
夜明けごろ、ポールに支えられて宮殿に到着した。クラリッサが険しい顔をして寝ずに待っていた。
「なんてことでしょう。可哀想なキャサリン」
彼女は気も狂わんばかりの様子で言う。
私はクラリッサが抱きしめてにきて、本当に心を痛めているのに驚いた。他人にたいして純粋な思いやりや同情を示す人だとは思っていなかったのだ。
彼女はウォルターへの怒りのせいで顔が厳しくなり、胸はふくれあがっていた。
残念ながらウォルター・クラインは
彼女は変わらず山の別荘に住んでいた。男友達が事件を起こして以来、もうマスカレードにも行かず、外出もしないで屋敷の中にこもっている。まるで攻撃されることを恐れているかのように。
私はアデラインが一緒にいてくれるのが好きだった。アデラインは優しかった。たぶん私が何をされたのかは理解していなかったろう。でも、アデラインの優しさにはわざとらしいところがなく、真心から出たものだった。
「ポール・アッシャーがいらしていたわ」
目覚めた私にアデラインが言う。
アデラインは同じ部屋で寝るようになっていたのだ。
起き上がってネグリジェを脱ぐ。腕や太ももに痛々しいあざのあとが浮かび上がっていた。
「ポールが?起こしてくれればよかったのに」
「侯爵が起こしたがらなかったのよ。あなたが寝ていたから」
アデラインはそう言って温かい茶色の瞳で私を見る。
事件以来、と私は再び考えた。あの事件以来、ポールはダリアと会わなくなった。お酒もすっぱりと断って、毎晩私が眠るまでそばにいてくれる。そのかわり、彼はますます無口になった。怒りや後悔を、その大きな体に無理やり封じ込めているかのようだった……
「あなたを愛してるのね」
アデラインは私につきっきりのポールを見てそう言うけれど、違うのだ。
夫婦の会話は減ってしまった。彼は優しいけれど、二人きりになるのを避けている。私はポールに謝りたかった。こんな事件に巻き込んでしまったことを、ウォルターに襲われたことを。
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