第5話 お豆腐メンタル
当時の俺は、まさか自分がこんな姿になるなんて微塵も思っていなかった。というか、こんな姿になったからこそ、あんな風にはしゃいでいたのだろうし。鏡に映る自分は、紛れもない俺なのに、頭にはふさふさの獣耳が生え、腰からはしなやかな尻尾が伸びている。制服のブレザーから突き出た尻尾を掴んで揺らしてみたり、手で耳を触ってその感触を確かめたり。そのたびに全身に走る、今まで感じたことのない奇妙な感覚に、俺はもう夢中だった。鏡の前で獣のように四つん這いになってみたり、飛び跳ねて着地と同時に尻尾でバランスをとる練習をしてみたり。もしあの時の俺を誰かが見ていたら、間違いなく精神病院送りにされただろうね。俺が殺されて良かったと、心底思う。
いや、殺されてよかったって何?俺ってドMだった?
あの異常な興奮状態がどれくらい続いたのか覚えていないよ。ただ、日が暮れて部屋が薄暗くなっても、俺は鏡と向き合い、自分に生えた新しい「パーツ」を飽きることなく観察し続けていただけ。そのうちに、体力の限界が来たのか、あるいはようやく冷静さを取り戻したのか、鏡の前の俺はへたり込んだ。そして、目の前にいる、耳と尻尾が生えた自分の姿をまじまじと見つめた。
「…俺、どうなっちゃったんだ?」
声に出してそう呟いた時、初めて強烈な不安と恐怖が胸を締め付けた。さっきまでの浮かれた気分はどこへやら、体の奥底からじわじわと冷たいものが這い上がってくるのを感じた。これは夢じゃない。現実だ。俺は、人間じゃなくなってしまったのかもしれない。
そこからのことは、あまりよく覚えていない。ただ、強烈な自己嫌悪と絶望感に襲われ、鏡の前で震えていたことだけは確かだ。あの時は、自分の身に何が起こったのか全く理解できていなかった。そして、これから自分の人生がどうなってしまうのか、想像もつかなかったのだから。
そうしている間に辺りが暗くなってきた。やっぱ宿とか見つけるしかないんかな?と思った俺はただ、前に進んだ。どれくらい歩いたかは当時めっちゃ病んでたと言ってもおかしくはないから覚えているはずもない。ただ単に前にすすめば街や宿がある、そう思っていた。今思い出しても...あーもっと病みそう。俺って、小さい頃からお豆腐メンタル並みに弱かった。親に怒られた時なんか、2階から頭を出して「消えてーなー」とか思っていたぐらい。だから、いつも人前なんかで発表する時とかも緊張で病んでたとかもあった。
まぁ、ひとまずその話は置いとくとして。
どれぐらい経ったのだろう。向こうに街みたいなところが出てきたので、そこからひたすら走った。不安と僅かな期待がないまぜになった感情を抱えながら、俺は人々の目を避けつつ、街の奥へと足を踏み入れた。薄暗くなってきた街の明かりが、俺の歪んだ影を地面に落とす。ぼんやりと霞んだ視界を頼りに見たこともない建物、知らない人々。俺は、この見知らぬ街で、一体何をすればいいのだろう。どこへ行けばいいのだろう。
街の通りは、想像していたよりもずっと賑わっていた。色とりどりのネオンサインが瞬き、行き交う人々でごった返している。だが、その街並みは、俺の知っている「普通」のギルド《まち》とはどこか違っていた。高層ビルや近代的な店舗が立ち並ぶ一方で、やけに重厚な石造りの建物や、異様に大きな木製の扉を持った建物が点在しているのだ。そして、街を行く人々の服装も多様だった。スーツを着たビジネスマンの横を、革鎧のようなものを纏った人間が歩き、ローブ姿の者や、明らかにファンタジー世界の住人のような装いの者までいる。
その異常性を最も際立たせていたのは、街の至る所に存在する巨大な看板や、人々の会話の中に頻繁に出てくる単語だった。
「今日の依頼、Aランクのを達成したぜ!」
「ギルドに新しいポーションが入荷したらしいよ」
「ダンジョン探索のパーティーを探してるんだが…」
ダンジョン、 ポーション、ギルド......。異世界転生ものラノベとか読んでいた自分は到底理解できる言葉だったが、今はそんな事どうでもいい。
そして、俺の視線の先に、その街の異様さを象徴するような建物が現れた。それは、街の中心部にそびえ立つ、まるで要塞のような巨大な建築物だった。その正面には、金色に輝くエンブレムが掲げられている。剣と盾が交差したような紋章の下に、大きな文字でこう書かれていた。
「冒険者ギルド総本部」
街全体が、信じられないような活気に満ちていた。人々は皆、どこか目的を持って、力強く歩いているように見える。その活気の源泉こそが、この街を**めちゃくちゃ発展したギルドという形で作っているらしい。至る所にギルドの支部らしき建物があり、クエストの貼り紙がされた掲示板に人々が集まっている。武器屋や防具屋と思しき店からは、金属を叩く音が響き、薬草や得体の知れない材料を扱う店からは、鼻を突くような独特の匂いが漂ってくる。
俺は呆然と立ち尽くしていた。ここは、一体どこなんだ?俺は、どこか別の世界に迷い込んでしまったのだろうか?獣の耳と尻尾が生えた自分の体が、この非日常的な街並みと重なり、強烈な現実感を伴って俺に迫ってきた。この街なら、俺のこの姿も、もしかしたら受け入れられるのだろうか。あるいは、逆に狙われてしまうのだろうか。
俺の心臓は、先程までとは違う種類の不安と期待で激しく鼓動していた。目の前に広がるのは、全く未知の世界。そして、この世界が、秘密を抱えた俺の運命を、さらに予測不可能な方向へと導いていくのだろう。俺は、人々の波に紛れ込みながら、この「ギルドの街」の奥へと足を踏み入れていくしかなかった。
俺は、人々の波に紛れ込みながら、この「ギルドの街」の奥へと足を踏み入れていくしかなかった。薄暗くなった街並みを、俺はひたすらさまよい歩いた。どこを見ても目新しいものばかりだ。大通りには、ガラス張りの現代的なビルの隣に、ファンタジー映画に出てくるような木組みの建物が肩を並べている。道の真ん中を最新型の電気自動車が走っているかと思えば、その横を大八車に巨大な剣や鎧を積んだ男たちが歩いている。時間の感覚がおかしくなりそうだった。
街の中心に近づくにつれて、ギルド関連の施設が増えていく。武器屋のショーウィンドウには、光沢を放つ剣や斧、見慣れない形状の杖が並んでいる。防具屋からは、金属や革の匂いが漂ってくる。薬草店からは、甘いような、それでいて薬っぽい独特の香りが漏れ出し、立ち並ぶ露店では、奇妙な形をした鉱石や、色鮮やかな羽根などが売られていた。
俺は、彼らに紛れて歩きながらも、常に警戒を怠らなかった。特に、俺に向けられる視線に敏感になっていた。誰も俺の耳や尻尾に気づいている様子はないが、それでも誰かが少しでも長く俺を見ている気がすると、心臓が跳ね上がった。ズボンの中で尻尾が動くたびに、背筋が凍る。髪の下に隠した耳が、周囲の騒音を拾いすぎて、時に痛みを伴うほどに響く。この街の活気は、俺にとっては耳障りな雑音でしかなかった。
どれくらい歩き回っただろうか。空腹と疲労がピークに達し、足が完全に止まった。周囲を見渡すと、小さな公園のような場所があった。人通りも少ない。俺は、誰にも見られないように、公園のベンチにそっと腰を下ろした。
遠くで聞こえる賑やかな話し声や笑い声が、俺の孤独感を際立たせる。俺は、この街の人間ではない。そして、恐らく、俺はもう「人間」でもないのかもしれない。この体になってから、俺は完全に孤立してしまった。家族にも、友達にも、この秘密を打ち明けることはできない。
このままでは、飢え死ぬか、誰かに見つかってしまうか、どちらかだ。どこかで寝る場所を探さなければならない。そして、何か食べるものを手に入れなければならない。だが、金はほとんど持っていない。どうすればいい?この街で、この姿で、どうやって生きていけばいいんだ?
視線を上げた先には、またもや巨大なギルドの建物のシルエットが見えた。あの建物に行けば、何か変わるのだろうか。依頼を受けて金を稼ぐ?馬鹿な、俺にそんなことができるわけがない。しかし、この街の全ては、あのギルドを中心に回っているように見える。俺がこの街で生き残るためには、もしかしたら、あのギルドの存在を無視することはできないのかもしれない。
俺はベンチに座ったまま、暗闇に浮かび上がるギルドの建物をじっと見つめていた。不安と、ごく僅かな、藁にもすがるような希望が、俺の中でせめぎ合っていた。しかし、考えていてもどうにもならないことは分かっている。このままここにいても、何も解決しない。
重い腰を上げ、俺は再び歩き出した。目指すは、屋根があり、人目を気にせず眠れる場所。つまり、宿だ。だが、金がないという決定的な問題がある。高級そうなホテルや旅館は最初から論外だ。もっと安そうな、場末の宿を探すしかない。
裏通りへと入ると、メインストリートの喧騒が少し遠ざかった。薄暗く細い路地には、古びた居酒屋や小さな商店が軒を連ねている。その一角に、場末感を絵に描いたような建物があった。「旅籠 つきのしずく」と書かれた看板は色褪せ、壁はひび割れている。しかし、ここなら、もしかしたら安く泊めてもらえるかもしれない。あるいは、日雇いの仕事でも紹介してもらえるかもしれない。
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