第十六章 静謐なる深淵

第十六章 静謐なる深淵


冥府宮・第八階層――。


前階層までの濃密な瘴気とは異なり、そこには異様なまでの静けさが支配していた。

「深淵」とも称されるこの階層には、音も熱も、空気の流れすら存在しないかのようだった。


「……ここ、なんだか空気が止まってるみたい」


そう呟いたのはクレアだった。

彼女の手に握られた聖印が、かすかに淡い光を放っている。


「魔の気配は薄いけど……だからこそ逆に怖いわね。気を抜くなってことよ」


サタナエルが腰の二振りを確かめながら、周囲に目を配る。

ルシフェリスも頷いた。


「気を張りすぎて消耗する必要はないけれど……この階層は、何かが“潜んでいる”」


「おばけ出るのかな……」

シルカが縮こまった声で言う。


「むしろ、出てくれた方が気が楽よ。何もいない方が、怖いっての」


クリスは言葉とは裏腹に、背中越しに魔力を漂わせていた。

この階層に足を踏み入れてから、彼女の詠唱速度は微かに速まっている。


**


探索を進めるうちに、彼女たちはこの階層の奇妙な構造に気づいた。


石造りの通路は、どこまでもまっすぐ続き、曲がり角のない一本道が幾重にも折り重なっている。

壁に刻まれた無数の碑文と、意味不明の魔術文字。

そして、時折現れる「記憶の幻影」と呼ばれる現象――それは、誰かの過去の一瞬を映し出す幽玄の像だった。


「……あれは……!」


一行が見たのは、幼い少女が白い衣をまとい、剣を振るう幻影だった。

彼女の傍らには、背の高い金髪の騎士――その姿を見たルシフェリスの瞳が、かすかに揺れた。


「……ルシフェリス? どうかした?」


クレアが心配そうに声をかけたが、ルシフェリスはすぐにかぶりを振った。


「……大丈夫。さ、行きましょう」


気丈な態度の裏に、彼女だけが抱える何かがある――他の仲間もそれを察しつつも、今は何も問わなかった。


**


やがて、通路の先に広がる広間へと出た。


そこは、鏡のような床が広がる空間だった。まるで天と地が逆転したような錯覚に陥る。

その中心に、ただ一体の魔物が佇んでいた。


漆黒の鎧に身を包み、顔の見えぬ兜をかぶる騎士――

彼が手にするのは、重厚な斧槍。


「……名乗る気もないか。ならば、ただ斬るまで」


ルシフェリスが前に出る。

続いてサタナエルが斜め後方に構え、シルカが低姿勢で脇へと回る。

クレアとクリスが、それぞれの詠唱を始めた。


そして――斧槍が振り下ろされた。


戦いは激烈を極めた。

魔物の一撃は大地を砕き、空間を歪めるほどの威力だったが、ルシフェリスたちは連携をもって応じた。


やがて、サタナエルの双剣が鎧の継ぎ目を裂き、クリスの雷撃が敵の動きを封じる。

シルカの放った手裏剣が隙を作り、ルシフェリスの剣が、静かに、だが確実にその心臓を貫いた。


「……終わった、か」


敵が崩れ落ちたとき、広間に再び静寂が戻る。

床の鏡面に映るのは、彼女たち五人の姿だけだった。


**


階段が現れる。

次の階層へ続く、黒曜石の螺旋。


その前で、クレアがそっとつぶやいた。


「この階層……誰かの“記憶”が、たくさん残っていた気がします。とても、強い想いが」


「記憶なんて、時間が経てば消えるもんだと思ってたけど……残るものなんだな」


サタナエルが腕を組んで言う。


ルシフェリスは、床に映る自分の影を見つめていた。


「記憶も、想いも……消えずに残るなら、私はそれに応えたい。剣を取って、進む意味がある」


静かに、そして力強くそう言って、彼女は一歩、階段を踏み出した。

仲間たちもそれに続く。


闇の中に続く階段――

彼女たちの旅は、いよいよ終盤へと近づいていた。



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