第6話久しぶりの再会
一時帰宅を終えた層一は、再び病院のベッドに戻った。
いよいよ本格的な抗がん剤治療が始まり、強烈な吐き気、倦怠感、めまい、食欲不振――副作用が容赦なく彼を襲った。ベッドから起き上がるのもやっとで、鏡に映る自分の頬が日に日にこけていくのがわかった。
病室の天井をぼんやりと眺めながら、層一は唇をかみしめた。
(なんで、俺なんだよ…。なんで、よりによって今なんだよ…)
スキーの大会も、トレーニングも、仲間たちも、もうずっと遠くに感じた。
スマホに表示されるSNSのタイムラインには、同期の選手たちが夏合宿の様子を投稿している。
(みんな、普通に前に進んでんのに。俺だけ、ベッドで寝たきりって…何だよ、それ)
焦りが、喉の奥を焼くようにこみ上げた。
そんな中でも、雪とのLINE電話だけは日課として欠かさなかった。だが――その日、層一の心は限界に近かった。
「そうちゃん、今日の具合はどんな感じ? 少しでも食べれたべか?」
「……食えるわけねぇべや。匂い嗅いだだけで吐き気するのに」
「あ…そうか。ごめんね、無理に聞いちゃって。うち、なんかできることないかなって思って…」
「……ないわ。今の俺には、何やったって意味ねぇしょや。どんな励まし聞いたって、状況は変わんねぇんだわ」
「そんなこと、ないってば。うちは、そうちゃんがどんなに辛くても、ずっとそばに――」
「……もうええって。綺麗ごとばっか聞きたくねぇ」
「そうちゃん…?」
「なして、雪はそんなに前向きでいられんのさ…。うちは健康で、好きなこともできて、普通に暮らせてるから、そったらこと言えんだべ。俺は、夢も未来も、この病気に全部奪われるかもしんねぇんだぞ…!」
雪の息を呑む音が、電話の向こうで微かに聞こえた。
層一の声は震えていた。自分でも止められなかった。感情が、堰を切ったように溢れ出た。
「怖ぇんだよ…! このまま目が覚めなくなったらどうしようとか、ジャンプどころか、雪に会えなくなるんじゃねぇかって…。ずっと、一人で病院の天井見上げてんの、もう限界なんだわ…!」
しばらくの沈黙のあと、雪の声が震えて返ってきた。
「……そうちゃん。うち、なんもわかってなかった。うちは、ただ“頑張って”って言えば、少しでも励ましになるって、そう思ってただけだった。でも…そうちゃんの不安も、焦りも、寂しさも、ほんとはぜんぶ、受け止めたかったんだわ…。うち、そうちゃんのこと、大事だから…」
「……もう切るわ」
層一はそう呟くと、通話を一方的に終えた。
暗くなった画面を見つめたまま、彼の目に涙がにじんだ。
(なんで、雪に当たってしまったんだべ…。)
一方、スマホを握りしめた雪もまた、声を殺して泣いていた。
「……どうしたら、うちの気持ち、伝わるんだべか……。ただ、そばにいたいだけなのに…」
次の日の朝。層一は決心して、看護師に声をかけた。
「看護師さん…ちょっと、話、聞いてもらってもいいっすか…」
「もちろんです。どうされました?」
「……昨日、彼女に…雪に、ひどいこと言ってしまって。なんも悪くねぇのに…。俺、もう気持ちも体も限界で…正直、自分でも自分のこと、制御できねぇんです。こんなんじゃ、ほんとに人としてダメだなって思って」
「層一さん、それは自然なことですよ。今は心も体も傷ついてる状態です。そんなとき、感情が爆発しちゃうのも、普通です。大事なのは、それに気づけたことです。…心のケアも治療の一部です。精神科の受診、考えてみませんか?」
「……はい。そうします。自分でも、ちゃんと向き合いたいから」
そしてその日の夜。再びスマホを手に取り、層一は震える指で雪に電話をかけた。
「……雪」
「……そうちゃん…」
「昨日は…ごめんな。ほんとにごめん。全部ぶつけちまった。雪が悪いわけじゃねぇのに」
「うちも、ごめんね。無理に元気づけようとして、そうちゃんの気持ちをちゃんと見てあげてなかった。…うち、そうちゃんの辛さに寄り添いたいって思ってるのに、逆に苦しめちゃってたかもしれない」
「違う。雪の言葉、ほんとは嬉しかったんだ。だけど、俺、自分のことでいっぱいいっぱいで…。だけど、ちゃんと向き合ってみようって思った。精神科も受けてみることにした」
「ほんとに…? よかった…。うち、そうちゃんがそうやって一歩踏み出してくれただけで、安心したわ」
「ありがとな。…雪。お前がいてくれて、ほんとに良かった」
そうして、層一は少しずつ前を向き始めた。
精神科を受診した日、層一は深いため息をつきながら診察室を出た。
(やっぱり、話してみてよかったわ……)
医師に胸の奥にしまっていた思いを打ち明けた。自分でも整理できていなかった感情――苛立ち、焦り、不安、喪失感、そして孤独。それを口に出すことで、自分がどれほど疲れきっていたかを、改めて思い知らされた。
「層一さん、あなたは“戦っている最中”にいるんですよ」と、医師はやさしく言った。
「ですから、苦しくて当然なんです。でも、話すことで少しでもその苦しみが軽くなるなら、それを続けていきましょう」
その帰り、層一は看護師にこう伝えた。
「……雪、病院に来てもいいって、言ってくれませんか?」
看護師は一瞬驚いたようだったが、すぐにやわらかく微笑んだ。
「もちろん。ご家族の同意もありますし、感染対策もしっかりしたうえで、調整しますね」
数日後、面会許可が出た。
病室のドアが静かに開く。そこにいたのは、マスク越しでもわかる、どこか緊張した雪の顔だった。
「そうちゃん…」
「……よう来たな。会うの、久しぶりだな」
層一の頬はこけ、髪も薄くなっていた。でもその目には、少しだけ光が戻っていた。
「うち…うち、なんて言ったらいいか……。こうして会えて、嬉しいけど……つらいのもある」
「……俺も。会いたかったけど、見せたくなかった。こんな姿……情けねぇべや」
「情けなくなんか、ないっしょや。よう頑張ってるって、見てすぐわかる。……そうちゃんは、いつだって、うちの自慢の人だわ」
その言葉に、層一は小さく笑った。
「……雪。俺さ、病気のこと、公表しようと思ってる」
「え……ほんとに?」
「うん。最初は、怖かった。情けないとこ見せたくなかったし、スキーのこともまだ諦めたくなかった。でも今は、ちゃんと話したい。応援してくれてる人もいるし、同じ病気と闘ってるやつもきっといるべや」
雪は黙って、層一の手を握った。細く、冷たい手だった。
「……うち、そうちゃんの決めたこと、どこまでも応援する。もし誰かが何か言ったって、うちは味方だから」
層一は、その手をぎゅっと握り返した。
「ありがとう、雪。……ほんとに、ありがとう」
数日後。層一は、自身のSNSに投稿した。
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ご報告があります。
私は今、脳腫瘍と闘っています。
スキーから一時離れ、治療に専念しています。
正直に言えば、すごく怖かった。
悔しくて、情けなくて、誰にも会いたくなかった時期もありました。
でも、支えてくれる仲間、家族、そして恋人に背中を押され、
この病と向き合うことを選びました。
今はまだ、病室のベッドの上だけど、
絶対に、またジャンプ台に戻ってみせます。
この経験を通して、少しでも誰かの希望になれたら嬉しいです。
応援、よろしくお願いします。
層一
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その投稿には、すぐにコメントやメッセージが殺到した。
「絶対戻ってこいよ」「待ってるからな」「お前ならできる」
画面の中に、たしかな“つながり”が広がっていた。
層一は、ベッドの上で深く息を吐いた。
まだ闘いは続く。でも、自分の足で、もう一度スタートラインに立つ日がきっと来る。
その横には、変わらず雪が寄り添っていた。
小さな手で、彼の手を握りしめながら。
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