第5話抗がん剤治療始まる
「それでは、本日から抗がん剤治療を開始いたします。お体の具合はいかがですか?」
「はい、特にしんどいとかはないです」
「では、投与を始めますね。気分が悪くなったり、吐き気が強くなったら、すぐにおっしゃってください」
「わかりました」
いよいよ、抗がん剤治療が始まった。
世界を相手に数多くの試合をこなしてきた自分には、それなりの体力があるという自負があった。だが、投与が始まって時間が経つにつれ、少しずつ、だが確実に、吐き気がこみ上げてきた。
ナースコールで看護師に伝え、トイレへと連れて行ってもらう。便器に顔を向けた瞬間、堪えていたものが一気にこみ上げ、吐いた。
胃の奥から絞り出すような強烈な吐き気。それは、形容しがたいほど苦しい感覚だった。
「こんなのが、これから何回も続くのか……」
そう思うと、心が折れそうになった。
一通り吐いて、ようやく少し楽になった頃、看護師がやって来た。手には、雪から預かった洗濯物と、便箋に書かれた手紙が添えられていた。
「そうちゃんへ
今日から抗がん剤治療が始まったね。
これから大変だと思うし、体力的にも辛くなる時があると思う。
私にできることがあれば、何でも言ってね。
早く良くなりますように。雪」
丁寧に、そして心を込めて書かれた、雪らしい綺麗な文字。
層一は手紙を読みながら、そっと呟いた。
「雪……ありがとうな」
便箋には、2022の文字と五輪マーク、ジャンプ台から飛び立つ自分の姿が描かれていた。
抗がん剤と放射線治療を経て、腫瘍が小さくなった頃、ついに開頭手術が行われた。
長時間に及ぶ手術を終え、層一が意識を取り戻したのは、5月3日──ゴールデンウィークの真っ只中だった。彼の誕生日である5月2日は、過ぎてしまっていた。
「今年は、雪と一緒に誕生日を過ごせなくて、ごめんな。
雪の誕生日には、俺、何としてでも退院できるように頑張るから」
「そうちゃん? 無事に意識が戻ってよかった〜。
私の誕生日まで、あと3ヶ月あるから、焦らずゆっくり治療に専念してね。
早くそうちゃんに会いたいな」
そんなやりとりを交わしながら、夜を迎えた。
手術後の頭痛も和らぎ、二重に見えていた視界も落ち着き始め、層一は少しずつ手応えを感じていた。
外では、連休で賑わう観光地の声が聞こえる。旭山動物園にも、多くの家族連れが訪れていた。
本来ならこの時期、スキーシーズンが終わり、雪と一緒に出かけるはずだった。
だが今年は、そんな気にはなれず、雪はカフェの仕事に没頭していた。
「雪、たまには仕事を休んで、リフレッシュしてきたら?」
「ううん……なんか、そんな気になれなくて。
そうちゃんが病気と闘ってるのに、私だけ楽しむなんて、申し訳なくて……」
「でもな、若いんやから無理しすぎるなよ。心がまいってしまうぞ」
「今は仕事してる時だけが、少しだけ気がまぎれるの。
でもね、来年は、そうちゃんと夫婦になって、いっぱい楽しむから」
「そうか……でも、しんどい時はちゃんと休むんだぞ」
「うん、ありがとう」
一日の仕事を終え、ベッドに潜り込んだ雪は、層一にLINEを送る。
「そうちゃん、もう寝たかな?
今日ね、喜多見さんが来たよ。
体力が戻ったら、一緒に飲みに行こうって言ってた。私も一緒に行きたいな」
「ごめん、うとうとしてた。
海斗が来たんだ。元気にしてた?
久しぶりに飲みに行きたいな。
そうか、雪ももう二十歳過ぎたもんな。なんか、つい最近高校を卒業したばかりな気がするけど」
「もう、子供扱いしないでよ。私もちゃんと大人なんだから」
「ごめんごめん。早く退院できたらええな」
そんなやりとりの後、二人は眠りについた。
月日が流れ、腫瘍も小さくなり、ついに一時帰宅の許可が出た。
「雪、明日から3日だけ、一時帰宅できることになった。午前中に迎えに来てもらえるか?」
「えっ、本当!? やったー!
あまりあちこち行けないかもしれないけど、そうちゃんの家でちょっとお祝いしようね」
「俺は、雪とゆっくり過ごせたらそれでええわ」
「ご両親には伝えてある?」
「あとで伝えとくよ」
そして迎えた帰宅の日。
雪は上川町から車を走らせ、層一を迎えに来た。
その手には、ひとつの包みが。
「そうちゃん、これ。気に入ってくれたらいいんだけど……」
「ん? 何やろな?」
包みを開けると、中にはウィッグと帽子が入っていた。
「抗がん剤で、髪の毛が抜けちゃうかもって聞いたから……。
これをかぶって、気軽に外に出てほしいなって」
「雪……ありがとう。大事にするよ。
これで外に出るのも気が楽になる」
「ほんまに、久しぶりに会えてよかった……会いたかったよ」
「俺も……やっと会えたな。心配かけてごめんな」
「ほんまやで。めっちゃ心配したんやから。
早く元気にならんと、応援やめるで」
「それは困る(笑)。ほな、帰ろうか」
「うん。出発進行〜!」
「頼んますわ」
車は1時間ほど走り、層一の実家に到着した。
「おお、層一、帰ってきたか!」
「ただいま。なんや、懐かしい匂いがするわ」
「お帰り、層一。一時帰宅って、いつまでおれるん?」
「明後日の昼には病院に戻らんとあかんみたい」
「そうか。それなら、明日はゆっくりできるな」
そこへ、車を駐めていた雪が玄関から入ってきた。
「ただいま帰りました」
「雪さん、お疲れさま。ちょっと休みましょ」
「はい。これ、そうちゃんが帰ってきたら皆で食べようと思って、買ってきたんです。マドレーヌです」
「雪、ありがとう。この店のマドレーヌ、うまいんやで」
「おーい、コーヒー淹れたぞー!」
「お父さん、ありがとうございます。
それじゃあ、いただきます!」
久しぶりに層一が帰ってきた上川家には、あたたかな笑い声が満ちていた。
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「それでは、本日から抗がん剤治療を開始いたします。お体の具合はいかがですか?」
「はい、特にしんどいとかはないです」
「それでは、投与を開始しますね。気分が悪くなったり、吐き気が強くなったりした時は、おっしゃってくださいね」
「わかりました」
こうして、層一の抗がん剤治療が、静かに幕を開けた。
世界を相手に戦い続けてきた層一には、自分の体に対するある種の自信があった。だが、現実は、想像以上に過酷だった。薬が身体に巡るにつれて、じわじわと吐き気が込み上げ、ナースコールを押す指が震える。
トイレで便器に顔を向けた瞬間、抑え込んでいたものが一気に込み上げてくる。胃の底から逆流するような強烈な吐き気——それはまるで、闘いの始まりを告げる鐘のようだった。
「こんなのが、これから何回も続くのか……」
ひとしきり吐いて、少し落ち着いたところで、看護師がやってきた。彼女の手には、雪から預かった洗濯物と、丁寧に折られた便箋が入っていた。
「そうちゃん。今日から抗がん剤治療が始まったね。これから大変だと思うし、体力的にも辛くなる時があると思う。私にできることがあれば、言ってね。早く良くなりますように」
淡いブルーの罫線に、雪らしい丸くて優しい字。便箋の端には、ジャンプ台から飛び立つ層一の絵、そして「2022」の文字と五輪マークが描かれていた。
「……雪。ありがとうな」
文字のひとつひとつに、彼女の不器用なまでの真心が詰まっていた。
放射線治療と抗がん剤治療が続き、腫瘍が小さくなった後、層一は開頭手術に臨んだ。
長時間の手術を経て、意識を取り戻したのは、ゴールデンウィークの真っただ中、5月3日。
誕生日の5月2日は、静かに過ぎ去っていた。
「今年は雪と一緒に誕生日過ごせんくて、ごめんな。雪の誕生日には、なんとしてでも退院して、ちゃんと祝いたいわ」
意識が戻って最初に浮かんだのは、雪のことだった。
「そうちゃん?無事に意識戻って、ほんっとに良かった〜。うちの誕生日まで、あと3か月あるし、それまでゆっくり治療に専念してね。うちも早くそうちゃんに会いたいよ」
LINEの画面に表示された、雪の返信。
飾らないその言葉には、どこまでもまっすぐな優しさがにじんでいた。
世の中は連休に浮かれ、旭山動物園にも家族連れの笑い声が響く。だが、雪は違った。
本来なら層一と出かけていたはずの季節。
今年の彼女は、カフェで働く時間にすべてを注ぎ込んでいた。
「雪、たまには仕事休んでリフレッシュしてきたら?」
「うーん、なんか……そんな気になれなくてさ。そうちゃんが頑張ってるのに、うちだけ遊ぶなんて、悪い気がして……」
層一の両親は、そんな彼女の真面目すぎる性格を心配していた。
「でもな、あんまり無理すんなよ。若いんだから、たまには息抜きも大事だべや」
「……わかってるけど、今は仕事してないと、気が滅入ってまうんだわ。働いとると、気がまぎれるし……来年は、そうちゃんと夫婦になって、いっぱい楽しむんだ」
「……そっか。なら、倒れる前に休めよ」
「うん。ありがと」
層一の病室には、彼女の声がいつも風のようにそっと届いていた。
夜、布団に潜り込んだ雪がスマホを手に取る。
「そうちゃん、もう寝たかな?今日ね、喜多見さん来てくれたんだよ。そうちゃんにまた元気になったら、飲みに行こうって。うちも一緒に行きたいな」
「ごめん、ちょっと寝てもうた。海斗来たんか、元気しとった?久々に飲みに行きたいな〜。雪ももう二十歳すぎたし、酒の一杯くらい、付き合ってくれや」
「うちを子ども扱いせんでよ。ちゃんと大人なんだから」
「ごめんごめん(笑)。はやく退院できるように頑張るわ」
ふたりの会話は、どこまでも穏やかで、深くて、優しい。
それから約1ヶ月後、腫瘍は大きく縮小し、一時帰宅の許可が下りた。
「雪、明日から3日間、一時帰宅の許可おりたんだ。午前中、迎えに来てくれるか?」
「え、ほんと!?やったぁ〜!あんまり遠出できんかもだけど、うちんちでちょっとお祝いしようや」
「俺は、雪と家でのんびりできたら、それでええわ」
「そうちゃんのご両親には、伝えてあるの?」
「うん、あとで言っとく」
電話の向こうで、雪が喜んで笑っている姿が、層一にははっきり浮かんだ。
翌日、雪は層一を迎えに車でやって来た。
助手席に渡された包みを開けると、中には帽子と、ウィッグが入っていた。
「そうちゃん、これ……。抗がん剤の影響で、髪の毛抜けるって聞いたから、ちょっとでも気が楽になればと思ってさ。似合うと思うんだ」
「……雪。ありがとな。大事にかぶるわ。これで髪が抜けても、外出るの気にせんで済むわ」
久しぶりに会ったその瞬間、ふたりの間には言葉より先に、ぬくもりが流れていた。
「そうちゃんに、やっと会えた……ほんと、よかった……ずっと会いたかったんだよ」
「俺もや。ほんと、会いたかった……ごめんな、心配ばっかかけて……」
「当たり前やんか。めっちゃ心配したっちゅうねん!早よ元気になってもらわんと、うち、応援やめちゃうで」
「それは困るなぁ(笑)。んじゃ、帰ろか?」
「うん!ほいじゃあ、そうちゃんの家に向かって、しゅっぱーつ!」
「頼んまっせ、雪さん運転手」
車が層一の実家に着いたとき、家の中はどこか懐かしい匂いに満ちていた。
「おぉ、層一、帰ってきたか」
「ただいま。なんか……懐かしいなぁ」
「おかえり、層一。一時帰宅って、いつまでおれるの?」
「明後日までやな。昼過ぎには病院戻らんといかん」
「ほしたら、明日はゆっくりできるね」
「うん。明日は、家でのんびりするわ」
そこへ、雪がマドレーヌの包みを手に家に入ってきた。
「ただいま帰りました〜」
「雪さん、お疲れさま。一息ついていきなさい」
「はい。これ、みんなで食べよ思って買ってきました。マドレーヌ、どうぞ」
「おぉ、ありがとな〜!ここのマドレーヌ、ほんとにうまいんだよなぁ」
「コーヒー淹れたぞ〜」
「お父さん、ありがとうございます。……それじゃ、いただきます」
笑い声と、あたたかな香りが満ちる食卓。
それは、失いかけた日常を、ほんのひととき取り戻したような時間だった。
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