《もう一人》3


 神殿の裏手、小さな石畳の広場。

 かつて巡礼者の足音が絶えなかった祈りの場。

 いまは、戦の傷を抱えた人々が静かに集う、癒しの広場となっていた。


 その中央に、イレーナは立っていた。

 白き祭衣に身を包み、まるで朝靄に浮かぶ幻のように、ひときわ静謐な気配をまとって。


 彼女は何も語らない。

 けれど、その両手からは淡く金の光がこぼれ、掌のひらが触れるたび、人々の痛みが少しずつ和らいでいく。


「聖女さま……また、お会いできて……」

 老いた女性が、膝を折りながら微笑んだ。

 その膝は長年の労働で歪み、戦の混乱で薬も手に入らず、歩くことさえ困難だった。


 イレーナはその膝にそっと手を添えた。

 指先から流れる光が、静かに患部を包みこむ。

 痛みに歪んでいた顔が、徐々に安らぎを取り戻していく。


「……あたたかい。こんなにも……」


 老女の目に、涙が浮かんだ。

 > それは痛みではなく、希望の温もりに触れた心の震えだった。


 周囲には、子どもを抱えた母親がいた。戦火で火傷を負った少年がいた。目に見えぬ心の傷を抱えた青年がいた。

 誰もが声を潜め、ただイレーナの祈りの手を待っていた。


 彼女はひとりひとりに時間を惜しまず、目を見て、触れ、静かに微笑む。


 言葉はなかった。

 けれどその仕草は、誰よりも雄弁に「ここにいる」と伝えていた。


 やがて、癒された子どもが、手に握っていた小さな花を差し出した。

 それは野に咲く名もなき白い花。

 イレーナは小さく頷き、それを両手で受け取る。


「ありがとう、聖女さま……あなたがいてくださって、本当に良かった」


 声にならぬ感謝が、さざ波のように広がっていく。

 人々は彼女に向かって、そっと頭を垂れ、手を合わせ、胸に手をあてる。


 それは、もはや神への祈りではなかった。

 人の形をしたやさしさへの、まっすぐな感謝だった。


 どこかで風鈴が鳴った。

 その音に似た、やさしい笑い声がひとつ、広場に咲いた。


 沈黙の聖女。

 言葉を捨てても、癒しを忘れなかったひと。


 その存在は、確かに、誰かの「救い」だった。




 一方、王都南部、かつては市場が賑わい、人の声と香辛料の香りが溢れていた一角。

 今は焼け焦げた屋台の骨組みが残り、倒れた石柱と瓦礫が通りをふさぎ、そこにかつての活気の面影はなかった。


 だが、その廃墟のなかに、一筋の黒が立っていた。


 リィゼ・クラウス。

 黒衣の魔女そう呼ばれた少女は、静かに地面に手をかざした。


 ふっと風が舞い、彼女の指先から、淡い紫紺の光が花のように広がっていく。

 すると、その光の中から一体、また一体と、朧な影が姿を現した。


 鎧を纏い、剣を携えた幻の兵士たち。

 それは彼女の魔力によって形づくられた幻兵

 記憶から紡がれた、かつての守護者たち。


「あの石を退けて」

 リィゼの声は淡く、だが確かな意志を宿していた。


 幻兵たちは音もなくうなずき、力を合わせて巨大な瓦礫を持ち上げ、割れた石壁の破片を運び、折れた木材を整然と積み上げていく。


 その光景は、まるで亡霊たちが街の残骸に祈りを捧げるようでもあった。


 リィゼは命じるだけではなかった。

 自らも手を汚し、割れた陶器を拾い、壊れた梁を支え、幼子が落とした人形をそっと拾い上げて渡す。


「魔女さま……ありがとう」


 まだ焦げの残る家の縁から、少女が顔をのぞかせ、か細い声で礼を告げる。

「いいの。助け合いだよ。」


 リィゼは、幻兵の一体をその家へ遣わす。

 瞬く間に残された倒木がどかされ、道が拓かれていく。


「幻……だけど、ほんとうに助けてくれるんだね……」


 誰かがそうつぶやいた。

 それは、恐れでも侮蔑でもない。

 混じり気のない驚きと敬意が同居した、澄んだ声音だった。


 日が西に傾く頃には、一本の通りが通れるようになっていた。

 木々が倒れていた水路も開き、しばらく枯れていた水が、ゆるやかに流れを取り戻す。


 疲れたリィゼが腰を下ろすと、ひとりの老人が、湯気の立つ茶を手渡した。

「礼くらい言わせてくれ。……ありがとう。あんたのしてることは、立派な神業だ」


 リィゼは、ゆっくりとその器を受け取る。


 誰かを助けられるなら。

 その意志だけが、彼女を動かしていた。


 そして幻兵たちは、主の心を映す鏡のように、誰よりも静かに、けれど誇り高く、復興の歩を支えていた。


 その姿を見上げる民の目には、魔女を恐れることをやめる人も増えていた。



 リィゼ、イレーナ。

 二人は、決して多くの言葉を交わしたわけではかった。

 だが、その行動は、まるで鏡のようだった。


“異端”という名を背負いながらも、

 人の声に耳を傾け、傷に手を差し伸べ、沈黙のうちに祈りを編む。


 魔女と呼ばれながらも、自身の力を人のために。

 優しさをもって人々を安心させる。


 まるで、ひとつの意思が、ふたつの身体に宿ったかのように。


 そしてその優しさは、少しずつではあるが確かに、王都の空気を変えていった。

 聖女に届く果物の供え物が増え、リィゼの行き先で扉が閉じられることも減った。


 民の心は、ふたりの姿を受け入れはじめていた。


 その変化は、あまりに小さく、あまりに静かだった。

 けれどそれゆえに、かえって深く心の奥底へと、確かに届いていた。

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