《もう一人》2
神殿の中庭。
そこは、信仰と沈黙がひそやかに交わる、聖域のような場所だった。
白亜の回廊に、朝の薄明が差し始めていた。
池の水面には、白い睡蓮がいくつも浮かび、語らず、咲き、ただ“在る”ことだけを選んでいた。
その静寂の中に、ひとりの少女が立っていた。
白の衣に身を包んだ、神託の聖女――イレーナ・フロール。
彼女の足元には、長く引かれた祈りの影が伸びていた。
揺れる水面に映るその影は、まるで水底に沈むもう一人の自分のように、輪郭をゆらゆらと歪ませていた。
「……奇遇ですね」
その声に、イレーナは静かに振り返った。
白亜の柱の影に、ひとりの少女が佇んでいた。
黒のローブをまとい、夜闇を紡いだ幻影のような姿――
リィゼ・クラウス。
かつて「魔女」と呼ばれ、今は王に仕える守護者。
彼女の歩みは静かだった。
そこに敵意はなく、むしろ迷いと、確かめようとする意志の揺らぎがあった。
「あなたが、ここに来るとは思いませんでした」
イレーナの声は、風のさざめきのようにやわらかく、どこか遠い。
その声音は、言葉より先に、リィゼの胸の奥へと静かに届いていた。
「名を呼ぶことも叶わなかったけれど……あの時、私の命を救ったのは、貴女でしょう?」
リィゼの声は、問いというよりも、胸の底からふと零れ落ちた真実のひとしずくのようだった。
押し殺すような鋭さも、誇りの仮面も、そこにはなかった。
イレーナは目を伏せ、淡く微笑んだ。
「名を呼べなかったのは……私の方も、同じです」
その言葉には、長い沈黙の果てに宿された想いが、そっと滲んでいた。
「あなたがどんな名で呼ばれようとも――
あの夜、私はただ、“目の前にいる一人の人”を助けたかったのです。
神の声ではなく、私自身の意志で」
白い睡蓮が、凪いだ水に静かに揺れていた。
その姿は、まるで語らぬ信仰の花のように、美しく気高かった。
「ここは、神に仕える者のための休息の場です。ですが……あまり人は来ません。
私はリィゼさんと話したいと、ずっと思っていたのです」
イレーナはことばを選ぶように、そっとリィゼの隣へ歩み寄った。
「……聖女の庭に、魔女が足を踏み入れても、罰せられはしない?」
それは笑みとも、嘲りともつかぬ、自嘲に似た問いだった。
「言葉とは、ときに人を縛るものです」
イレーナは静かに応えた。
「“聖女”という名も、“魔女”という名も……
誰がそれを与え、誰がそこに意味を定めたのか。
それが果たして、その人の本質を映しているのでしょうか?」
リィゼの眉が、わずかに揺れた。
その声に込められたのは、理屈ではなく、痛みと希望が溶け合ったものだった。
「言葉にすれば、それは“正しさ”になる。
けれど、本当に正しいものは、そう簡単に語れるものではない。
だから私は、神殿に対して沈黙を選んでいるのです」
イレーナの瞳は、まっすぐだった。
朝露をたたえた水晶のように澄みきったその眼差しに、
リィゼはかつて見たことのない“信じる意志”を見た。
「……それでも、あなたの沈黙は、人々から疑われている。
神託を歪めたと、魔女に心を奪われたと――聖女として危ういと」
それは責めではなかった。
ただ、誠実な問いだった。
イレーナは一瞬だけ目を伏せ、そして淡く微笑んだ。
その微笑は、どこまでも静かで、けれど揺るがぬ泉のような深さを湛えていた。
「神殿の総意は、わかっていました。けれど……私は、あなたの行いを見ていたのです」
その声は、風のなかに溶けていくようにやわらかく、
されど一言ごとに、確かな重みを宿していた。
「誰もが背を向けるなかで、あなたは王都を守ろうとした。
誰かの命を、名もなき声を、聞こうとしていた。
その姿は、私には――どんな神の奇跡よりも、美しく映ったのです」
風が通り過ぎた。
白い花弁がひとひら、水面に落ちた。
その波紋が、ふたりの沈黙をやわらかく包みこむ。
「あなたが何者であるかを決めるのは、神でも、人でもありません。
あなた自身の在り方。それこそが、すべてなのだと……私は、そう信じています」
リィゼは何も言わなかった。
けれど、その沈黙には、拒絶はなかった。
ただ静かに、揺れる水面の奥へと視線を落とし、やがてふっと息を吐いた。
「……あなたのような聖女がいるのなら、この国は守護するに値するかもしれないわね。
改めて、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました。
貴女がいなければ、王都はとうに陥落していました」
ふたりのあいだに、言葉は尽きた。
けれど、その沈黙は、空虚ではなかった。
交わされたものは、語られた言葉以上の何か。
それは、理解の芽吹きであり、まだ名もない絆の予兆であった。
池の水面に揺れる白睡蓮のあいだで、ふたりはそれぞれの沈黙を受け入れた。
そして――それぞれの道を、静かに、けれど確かに歩みはじめた。
それは、信仰の名のもとに敵とされたふたりの少女が、
たった一度、言葉の届く場所で、ほんのすこしだけ心を交わした、朝のことだった。
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