桜の下の少女

アルタイル

第1話 春の訪れ

 ──春。

 空は柔らかく晴れ渡り

 グラウンドには淡い桜色の花びらが、

 まるで波のように舞っていた。


 新入生たちのざわめきが、期待と緊張の入り混じった空気とともにグラウンド全体に広がっている。

 あちらこちらで、新しい制服に身を包んだ生徒たちが、友人同士で言葉を交わしたり、記念写真を撮ったりしていた。

 その喧騒は、遠くのスピーカーから流れる入学式の案内アナウンスと重なり、独特の賑やかさを生み出していた。


「すごいな……」

 思わず朝宮新あさみやあらたは、その喧騒の中で呟いた。


 見上げた空も、見下ろした地面も、清栄高校のグラウンドは桜で埋め尽くされていた。

 これから三年間着ることになる新しい制服はまだ肩に馴染まず、

 胸ポケットに差し込んだ入学式の式次第がカサリと鳴った。


 ──期待。

 ──不安。

 入り混じった気持ちを胸に抱えながら、

 新は校舎へと歩き出した。


 そのときだった。

 喧騒とはまるで違う、静謐な空気が新の意識に流れ込んできた。


 視線の端に、ふわりと動くものが映る。


 ──人だ。


 校舎とグラウンドの境目、

 桜の樹の下に、腰ほどの長さのある、色素が薄く白髪にも見えそうな白亜麻の髪が特徴的な女子生徒が立っていた。

 周囲の喧騒とは隔絶されたように、彼女は制服をきちんと着こなし、

 静かに、舞い散る桜を見上げている。


 まるでスローモーションのように、桜吹雪を運ぶ柔らかな風に髪が揺れ、

 その横顔をかすめる花びらが、新の世界から他のすべての音と色彩を奪い去り、

 ただ彼女だけが光の中に浮かび上がっているようだった。


 新は、立ち止まった。

 グラウンドの喧騒は、いつの間にか遠い背景の音となっていた。


 理由なんてなかった。

 ただ、視界に捉えた彼女から、文字通り、目が離せなかった。


「きれいだ」


 そんなありきたりな感想が、胸の奥に浮かぶ。

 だが、そのありふれた言葉では到底表現しきれないほどの強い衝撃が、新の心臓を打った。


 鼓動が、彼女を捉えた瞬間から、ゆっくりと、しかし確かに速くなっていくのを感じた。

 そして、その美しさに見惚れると同時に、彼女を取り巻く空気に、言いようのない寂しさを感じ取っていた。


(なぜだろう──桜の美しさに見惚れているように見えるはずなのにどこか遠くを見ているような気がする)


 新には少女の瞳が、周囲の祝福ムードとは裏腹に、入学式にはふさわしくない深い孤独を湛えているように見えていた。


「……あの。」

 気がつくと、少女は新のすぐ近くまで来ていた。


 新は、彼女がこんなにも近くにいることに、まるで時間が止まっていたかのように気づかなかった。


「は、はい!?」


 見惚れている間に少女が近づいていたことに驚き、思わず声が裏返る。


「大丈夫ですか? ずっとぼーっとしていたので、熱でもあるのかと思って」


 少女の声は、周囲の喧騒を忘れさせるほどに優しく、そしてどこか気遣わしげだった。

 彼女が新の顔を覗き込むと、その瞳は先ほど遠くを見つめていたときとは違い、澄んでいて、わずかに心配の色を浮かべていた。


(うわ、顔近い! しかも、いい香りがする!?)


 顔が赤くなるのを感じながら、新は必死に、見惚れていた事実を隠そうとした。


「え、えと、その、綺麗だと思いまして! じゃなくて!! いや、違わないですけど!!」


 しどろもどろになり、自分でも何を言っているか分からなくなっていく新。

 そんな彼を見て、目の前の少女は、可笑しそうに、それでいてとても澄んだ微笑みを浮かべた。


 その笑顔は、新の胸の奥に、小さな光を灯した。


「ふふふ、私も観ていたんですよ」


「え、観ていたって……?」


「ええ、桜。

 綺麗ですよね?」


 少女はにこやかに、新に穏やかな声で尋ねた。

 その声は、グラウンドの喧騒とは別世界のもののように、新の耳に優しく響いた。


「で、ですよね!

 桜、綺麗ですよね! 俺も見惚れてしまいました!」


 新は、まだ高鳴る鼓動を感じながらも、平静を装うように笑った。


「それなら良かったです

 入学式の桜は一度しかありませんからねこの景色を気に入ったみたいで良かったです。

 ──でも、女性に“綺麗”なんて軽々しく言っちゃだめですよ?」


 少女の言葉には、親しみと、ほんの少しのたしなめが込められていた。


「はは、今度から気をつけます……」


 新は、危うく見惚れていたことがバレたかと内心ひやひやしながら、顔の熱を隠すように苦笑した。


「あ、そろそろ行かないと、友達が待ってるんでした。

 じゃあ、またあとで」


 少女はそう言って、再び柔らかな微笑みを新に向けると、軽やかな足取りで校舎へと向かっていった。


 走り去る彼女の後ろ姿を、新は呆然と見送った。

 いつの間にか耳に戻ってきたグラウンドの喧騒も、ほとんど聞こえず耳に残ったのは彼女の優しげな声音だけ。


 そして、彼女の姿が完全に校舎の陰に消えた後、

 ようやく新は、自分が名前すら聞いていないことに気づいた。


「……名前、聞きそびれた」


 気がつけば、出会ったばかりの彼女の、春の光のような微笑みが、胸の奥にしっかりと刻まれていた。

 それは、新にとって、これから始まる高校生活のすべてを変えるかもしれない──

 そんな、忘れられない瞬間だった。



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