第21話:優しい傍観者
彼女はしっかり者と呼ばれることに慣れていた。
実際そうあろうとしていたし、それが自分の価値だと信じていた。
誰よりも早く出社し、誰よりもミスを避け、周囲に気を配る。
笑顔も、返事も、書類の整理も、すべて抜かりない。
「○○さんは本当、頼りになりますよね」
「ちゃんとしてる人って、憧れる~」
周囲からの声は慣れたもので、もう彼女にとって音でしかない。
ありがたいと思う反面、それは“そうであり続けなくてはいけない”という呪文でもあった。
実際、今日は朝から頭が重く、家を出るのも億劫だった。
最近、家族のことで悩んでいたし、上司との行き違いも続いている。
でもそれを見せたら、しっかり者ではいられない気がして、彼女はいつものように姿勢を正し、ミスなく業務をこなし、笑っていた。
そんな彼女の斜め前に座っている男がいる。
年齢は近いが、印象はまるで違う。
やる気のなさそうな風貌、会議中もどこか上の空、同僚からは「あの人ってさ~」と少し変わった存在として語られる人だった。
彼女は彼のことを、正直あまり好きではなかった。
というより、あまり関わることがないだろうというような、同じ土俵にいない人だと思っていた。
その週の金曜日、彼女は本当に限界だった。
でも弱音は吐かない。吐けない。
自分が崩れたら誰が支えるのか、そんなことばかり考えていた。
午後、取引先への提出資料の確認が終わり、彼女はようやくホッと息を吐いた。
「・・・よし、間に合った」
だが数分後、上司が駆け寄ってくる。
「○○さん、ここの数字が前のデータとズレてる!なんで直ってないの?」
そんなはずはない。彼女は震える手で自分のファイルを見返す。
正しい。間違いないはずなのに・・・
「すみません、・・・確認します」
視界が少し霞む。
だがそのとき、別の声が割って入った。
「俺、○○さんの代わりに前の提出資料から修正してコピーしてたけど、別部署がデータ集計ミスしてたようです。多分、そっちのミスっすよ」
彼は自席から動かず、書類をペラペラとめくりながら、さも当然のようにそう言った。
上司は眉をしかめたが、やがて納得したようにうなずいた。
「そのようだな。悪かった。別部署にはこちらから確認するよ」
去っていく背中を見送りながら、彼女は呆然と彼を見た。
何も言わず、資料に目を落としていた男。
この一週間、特別な会話はしていない。
むしろ、今までもほとんど話したことすらなかった。
なのに、なぜ。
彼が立ち上がって通り過ぎようとしたときに思わず「なぜ?」と聞いてしまった。
「今週、しんどそうだったから。まあ、なんとなく」
誰にも見せていないはずだった。
笑顔も、言葉遣いも、完璧に繕ったはずだったのに。
「・・・どうしてわかるんですか」
「普段は、俺にない目の奥のに光があるじゃん。今日は、それがちょいなかった」
誰にも言われたことのない言葉だった。
どれだけ頑張っても気づかれないまま通り過ぎてきた不調や感情に、彼だけがそっと触れてきた。
その日から彼女の中で、ほんの少し、何かが変わった。
周囲の評価も、仕事の忙しさも、彼のだらしなさも、全部変わっていない。
けれど、気づかれずに背負っていた重さが、少しだけほどけていくのを感じた。
見ている人は、ちゃんといたのだ。
傍観者のふりをして、黙って支えてくれる人が。
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