8-2 春って、ずるいね
午後の柔らかな日差しが、木造の弓道場に差し込む。
卒業式の喧騒から離れ、ユイとリョウは、誰もいない静かな空間へと足を運んでいた。
板張りの床に並んで座るふたり。
かつて矢を放ったあの的の向こうには、もう誰の姿もない。
リョウは静かに息を吐いた。
「……ここに来るとさ、全部……夢だった気がする」
「……ううん、夢なんかじゃないよ」
ユイはそう言って、ゆっくりと目を閉じた。
「ちゃんと、ここにいたんだよ。リョウくんも、わたしも」
優しく繰り返すその声には、過去を抱きしめるようなぬくもりがあった。
しばらくの沈黙。
春風がふたりの間を通り抜け、桜の花びらが一枚、ひらりと舞い込む。
リョウはその小さな花びらを見つめながら、ユイの手をそっと取った。
「これからも、たくさんデートして……たくさん笑ってほしい」
ユイは頷きながら、微笑んだ。
「うん、約束だよ」
その“約束”の言葉に、リョウは顔を少し傾け、
ユイの額に、そっと口づけた。
「……リョウくん?」
目を見開いたユイが見つめ返すと、リョウは照れたように、けれど真っ直ぐに言った。
「……今のは、ちょっとした予行練習。……本番は、これから」
そう言って、ふたりの距離がもう一度、ゆっくりと近づいていく。
触れるだけの、やさしいキス。
目を閉じるその直前、ふたりは笑い合った。
「……ほんとに、春ってずるいよね」
ユイがそう呟いた瞬間、また一枚、花びらが舞い降りてきた。
▽
校門を抜けると、夕日が傾きかけた空を赤く染めていた。
長く伸びた影が、ユイとリョウの足元に寄り添っている。
ふたりは並んで歩いていた。
卒業証書の筒を抱えたユイが、ふと口を開く。
「ねえ、もう“リョウくん”って呼ぶの、変かな?」
リョウは立ち止まり、少しだけ考え込んだような顔をしてから、優しく笑った。
「……いや。ずっと、そう呼んでほしいよ」
その言葉に、ユイの頬がほんのり赤くなる。
「そっか……でも、たまには名前で呼んでもいいよね?」
「……ユイ」
静かに、でも確かに響いたその声に、ユイは驚いたように目を見開き――そして、ゆっくりと微笑んだ。
そのとき、背後から元気な声が響いた。
「おーい!カラオケ行こーぜー!」
振り向くと、ケイタとエミリが手を繋ぎながら駆けてくる。
ふたりの間には、もう“迷い”はなかった。
「行くぞー主役ー!今日は打ち上げだー!」
ケイタの声に、ユイとリョウは顔を見合わせる。
思わず、ふたりとも笑った。
もう、過去には戻らない。
これからは、同じ歩幅で、前だけを見て歩いていける。
「一緒に春を迎えられる。
それが、何よりの幸せなんだ」
そして、彼女は思う。
きっとこの先も、季節がめぐるたびに、
“春”は、彼と繋がる風景になるのだと。
──また、春が来る。
あの日と同じように、でももう、違う春が。
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