8-1 そして2人は、未来を選んだ
春風が、制服の袖をふわりと揺らした。
青空の下、満開の桜が風に舞って、校舎の前を淡く染めていく。
ユイは胸に抱えた卒業証書をそっと見下ろしながら、ひとり佇んでいた。
あのたくさんの季節を、いくつもの夏を、幾度もの世界を越えて――
ようやく辿り着いた「この春」は、確かに暖かかった。
「おーい!ユイー!」
元気な声がして、顔を上げる。
駆け寄ってきたのは、エミリとケイタ。
エミリの手は、ケイタの大きな手にしっかりと包まれていた。
「なんだかんだで、くっついたんだね」
ユイが微笑んで言うと、エミリは肩をすくめて笑い返す。
「ほんっと、あんたたちが先に付き合うなんてね」
「なんだよー、ヤキモチか?」
ケイタがニヤニヤしながら言うと、エミリが軽く小突いた。
ユイはふふっと、小さく笑った。
その笑顔は、どこか少し切なくて、でもちゃんと幸せを含んでいた。
「ううん、よかったなって思ってるだけだよ」
春の陽射しがやわらかく照らして、
それぞれの未来へと、扉が開いていく気がした。
▽
卒業式を終えた校舎の裏手、午後の光が静かに差し込む保健室の前。
吹き抜ける春風とともに、微かに漂うコーヒーの香り――
懐かしいその香りに、ユイとリョウの足が自然と止まる。
そこにいたのは、いつもと変わらぬ白衣姿の斎賀ユウマ先生。
窓辺の椅子から立ち上がり、ふたりに柔らかく笑いかけた。
「……卒業、おめでとう」
その一言に、胸が熱くなる。
ユイは深く頭を下げ、少しだけ涙ぐんだ声で返す。
「ありがとうございます。……ここまで来られたのは、先生のおかげです」
すると、斎賀は肩をすくめて苦笑する。
「なんもしてないよ、僕は。ただ、保健室でコーヒー飲んでただけ」
「でも……そのコーヒーの匂い、たぶん一生忘れません」
ユイの言葉に、斎賀は一瞬きょとんとしたあと、目を細めて笑う。
「そりゃあ……なんか照れるなあ」
隣で黙って聞いていたリョウも、静かに頭を下げた。
「先生、ありがとうございました。……本当に、助けられました」
斎賀はふたりを順に見つめながら、ゆっくりと頷く。
「ふたりとも、“魂のかたち”、ちゃんと戻ったみたいだな」
その声には、どこか長い旅路を見届けた者のような、優しさと名残があった。
「……俺にとっても、いい春だったよ」
ユイは卒業証書を胸に抱きながら、小さく尋ねた。
「先生……また、会えますか?」
斎賀は少しだけ遠くを見つめ、春風に髪を揺らしながら呟く。
「会えたら、嬉しいね。でももう……見守らなくてもいい気がしてるよ」
ふたりに微笑みかけたその表情は、もう“見届け人”ではなく、
ひとりの人間として、優しく未来を祝う者の顔だった。
白衣の裾をなびかせ、斎賀はふたりに背を向けて歩き出す。
その背中は、どこまでも静かで、どこまでもあたたかかった。
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