7章

7章-1 進んだ日付、時間が迫る

——カチッ。


時計の秒針が静かに動いた音で、リョウは目を覚ました。

窓から差し込む光はもう、夏の眩しさではない。

秋の気配が教室にまで入り込み、空気を少しひんやりと冷やしていた。


(……戻ってこれた、のか?)


ぼんやりとした頭で、黒板に視線を向ける。

そこに書かれていた日付に、思わず眉が動いた。


「9月2日(火)」


……少し、進んでいる。


(……? おかしい。確か、7月19日のはずじゃ……)


胸の奥が、じくんと痛む。


リョウはポケットへ手を差し入れた。

触れたのは、あのペンダント。

冷たく、確かにそこにある。


(時間が……“先に進んだ”……?)


なぜかは分からない。けれど、ただのタイムリープではない気がした。

どこか“急かされている”ような焦りが、喉の奥に引っかかって離れない。


「……おはよう、リョウくん」


隣から聞こえてきた声に、ハッとして視線を向けた。


ユイが笑っていた。


けれどその笑顔は、どこか儚げだった。

頬は痩せ、目の下にうっすらと疲れの色。

それでも、変わらず“ここにいる”彼女の姿に、リョウの胸はかすかに安堵で満たされる。


「……うん、おはよう。ユイさん」


その名を呼んだ瞬間、ユイの瞳がほんの少しだけ揺れた。

けれど彼女は、それ以上なにも言わずに前を向いた。


(……話してくれない。

でも、覚えてるんだ。きっと、何かを……)


何かが変わっている。

そして、確かに残っている。


ふと、別クラスの窓の外に目を向けると、見覚えのある後ろ姿が見えた。

瀬戸サヤカ——その肩に寄りかかるようにして、男子生徒が笑っている。


(……別の誰かと付き合ってるのか。サヤカは……)


リョウは、胸の中の不安が少しだけほどけるのを感じた。


“あの未来”はもう、変わっている。

けれど——


ペンダントをぎゅっと握りしめる。

その瞬間、心臓の裏側にひやりとした“圧”が走った。


(まだ、終わっていない。……時間が、足りない気がする)


そして、担任の軽快な声が響く。


「はい注目! 文化祭の準備、今日から本格スタートするぞー!」


教室の空気がざわめく。

夏の終わりに、再び“あの夏”が動き始めた——

残された時間を、刻むように。



——ズブリ。


自分の手が、何かを深く貫いた感覚。


湿った音。あたたかい飛沫。

涙と叫び声と、リョウくんの腕に滲む赤。


「やめ……やめて……」


ユイは、夢の中で繰り返し、あの瞬間に戻っていた。


——


目を覚ましたとき、喉の奥が焼けるように乾いていた。

息がうまく吸えない。肺の奥がひゅうひゅうと鳴っている。


教室の天井が、歪んで見えた。


でも、それは一瞬だった。


「……朝霧さーん、今日プリント係だよー」


誰かの声に呼ばれて、ユイはゆっくりと体を起こした。

視線の先には、色とりどりのクラスメイトの姿。

変わらない日常。だけど、それが“恐ろしいほど異質”に感じられる。


(ここは……どこ?)


机の上にはプリント、黒板には9月2日。

文化祭の準備が始まる頃。


(また、戻ってきたんだ……)


胸元に手を当てると、制服の下にぬくもりのないペンダントの感触があった。

その形だけは、変わらずそこにある。


(……でも)


あの日の“感触”だけは、消えてくれない。


ザク、ズブリ。

何度も刺してしまった。

あの子を、サヤカさんを。

そして——


(リョウくんを……傷つけた手)


胸が苦しくなる。

ペンダントに触れる指が、微かに震えていた。


「ユイさん、顔色……大丈夫ですか?」


その声に、ハッとする。


顔を上げると、すぐ隣にリョウがいた。

心配そうに、でも静かにこちらを見ている。


その瞳に映った自分が、あまりにも惨めで、

でも——その声が、少しだけ心を解いた。


「……うん。ありがとう。大丈夫」


そう口にしながら、ユイはリョウの姿を見つめた。

でも視界が一瞬、ぐにゃりと歪む。


(……また、歪んでる)


心と身体と、世界の境界が崩れている。


「私、まだここにいていいの……?」


誰に問いかけるでもなく、心の中で呟いた。


ここは、何度目の“戻ってきた先”だろう。

夢と現実、記憶と残穢、罪と後悔——

すべてが混ざり合い、どこにも確かな答えはない。


それでも、リョウくんが隣にいる。

それだけが、今の自分をつないでくれていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る