5章
5章-1 こんな未来、選びたくなかった
弓を引く音が、静かな午後の弓道場に心地よく響いていた。
夏休みの中盤、弓道部は大会を目前に控え、連日の練習に励んでいた。
湿った風が吹き込む木造の道場の中で、ユイはゆっくりと弓を構え、矢をつがえる。
この世界に来てから数日。
まだすべてに馴染めているとは言いがたいけれど、
少なくとも今この瞬間だけは、自分の居場所がここにある気がしていた。
「肘の高さ、もう少しだけ上げてみてください」
背後から優しい声がかかる。
リョウだった。
「あ……うん。ありがとう、リョウくん」
ユイが振り返ると、リョウは変わらぬ真面目な眼差しで、けれどどこか柔らかい表情を浮かべていた。
「ユイさん、すごく素直に引けてます。無理せず、今の調子で大丈夫です」
「そっか…よかった!」
自然に言葉が交わせている。それだけで、心が軽くなる気がした。
この世界では、リョウの態度が少しずつやわらかい。
距離感も、口調も、以前より穏やかで――それが何より嬉しかった。
⸻
的の音がひとつ、またひとつと鳴る中、ふたりの練習を少し離れた場所から見ていたケイタが、声を上げた。
「おーい、いい感じじゃん、ユイ! その調子!」
エミリがその隣で笑う。
「うんうん、最近ユイのフォーム綺麗になってきてるよね。リョウくんの指導、さすが〜」
「えっ、私の腕前のおかげじゃないんだ?」とユイが軽く笑い返すと、エミリも肩をすくめて冗談を返す。
空気は和やかだった。
ケイタもエミリも、何かを疑うでも、探るでもなく、
ただ部活の仲間として、ふたりをそっと見守ってくれていた。
――今は、それが嬉しい。
⸻
練習がひと段落した夕方。
道場の裏のベンチで、リョウとユイは並んで麦茶を飲んでいた。
汗ばんだ道着の袖越しに、静かな風が通り抜けていく。
広がる白と黒の布地が、夕陽の橙にふんわりと染まって見えた。
「……なんだか、今のこの時間……すごく落ち着きますね」
リョウがぽつりとつぶやく。
ユイは、缶の飲み口を見つめたまま、小さく笑った。
「うん。ずっとこうならいいのにって、思っちゃう」
ふたりの間に沈黙が流れる。
でもそれは、気まずさではなく、心地よい静けさだった。
リョウがそっと言った。
「……ユイさん、今度の大会、楽しみですね」
「うん。今なら、ちゃんと弓を引けそう」
「僕も……ユイさんと一緒に試合に出られるの、嬉しいです」
“一緒に”というその言葉が、まるで約束のように響いた。
その瞬間、ユイの胸の奥がほんのり熱を帯びたような気がした。
この世界で、少しずつ。ゆっくりと。
ようやく届きはじめた気持ちが、確かにあった。
(このまま、ちゃんと育てていけたらいいのに――)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます