4-3 警鐘、走るノイズ
昼休みの保健室は、いつもより静かだった。
ユイは、誰にも気づかれないように、そっとドアを開けた。
冷房の効いた空気とともに、コーヒーの香りがふわりと漂ってくる。
「斎賀先生、失礼します」
カーテンの奥から返事はなかった。
代わりに、小さなコト…という音が奥の給湯室から聞こえてきた。
斎賀ユウマ先生は、片手にポット、もう片方にはマグカップ。
慎重にお湯を注ぎながら、穏やかに目を細めていた。
「ああ、君か。……体調、まだ整わない?」
「……うん。なんとなく。だるさが抜けないっていうか」
ユイはそっと椅子に腰を下ろした。
目を合わせないまま、制服の袖をいじる指先に力がこもる。
しばらくして、コーヒーを置いた斎賀先生がこちらに向き直った。
「君、“戻ってきた”って感じてるんだろう?」
ユイの肩が、びくりと震えた。
「……っ、どうして……?」
「顔に書いてある。“今が現実じゃないかもしれない”って不安と、
“それでも信じようとしてる”焦り。……よくある表情なんだよ」
「よくある……?」
先生は、静かに息を吐いた。
目を伏せたまま、テーブルに指で小さな円を描くようにしながら呟く。
「記憶と身体のずれってね、魂に負荷をかける。
同じ場所に立っているつもりでも、じつは心だけ別の時間を見てたりする」
ユイは、膝の上で手を握りしめた。
(この人……わかってる。普通の“相談相手”なんかじゃない)
「……先生は、何を知ってるんですか?」
思わず、声が出た。
「た、タイムリープのことも……私のことも……」
問い詰めるつもりじゃなかった。
でも、知りたいと思ってしまった。
何が起きていて、どうすればいいのか。
斎賀先生は、少しだけ驚いたように目を細めた。
それから、あえて話題をそらすように、カップを手に取った。
「体には気をつけなさい。目的はわからないけど――
無茶をしすぎると、“戻れなくなる”こともあるから」
「……“戻れなくなる”?」
先生はそれには答えなかった。
代わりに、ゆっくり立ち上がってカーテンの向こうへ戻っていく。
「今日は、横になっていく?」
ユイは一瞬迷ったあと、首を小さく横に振った。
「……いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
そう答えた声は、ほんの少しだけ震えていた。
胸元に手を添えると、ペンダントがかすかに温もりを持っていた。
(知っている。でも教えてはくれない)
それでも――この人の言葉は、信じていい気がした。
▽
文化祭準備を終えて、ユイは鞄を肩にかけながら昇降口を出た。
誰かを探すように、ふと周囲を見渡す――けれど、リョウの姿は見えない。
「ユイ、帰る? 途中まで一緒に帰ろうぜ」
ケイタが当然のように隣に並ぶ。
「……うん」
断る理由もなかった。
ユイは少しだけ間をおいて、並んで歩き出す。
校門を抜けた道には、部活帰りの生徒たちがちらほら。
まだ暑さの残る空気の中、制服の襟をゆるめながら話す声が聞こえてくる。
「ユイ、疲れてる? 最近あんま元気ないよなー。寝てる?」
「寝てるけど、なんか……変な夢ばっかり」
「夢?」
「うん、たまに、すっごく懐かしいの。なのに、全部バラバラで――でも、確かに“あった”気がするの」
「なにそれ、こわっ。寝言で“未来がどうとか”言ってたら、即起こすからな?」
ケイタは笑いながら、軽くユイの肩を小突いた。
「も〜、真面目に聞いてよ……」
「いやいや、真面目に聞いた上でビビってんだって」
ケイタのその言葉に、ユイも少しだけ笑った――
その直後だった。
前方の交差点に、制服姿の男子が立っていた。
見慣れた後ろ姿。
何も言われなくても、ユイにはわかる。
(……リョウくん)
信号待ちをしているのか、ぼんやりとこちらには気づいていない。
「ユイ?」
ケイタが問いかけたその瞬間――
リョウがふと、こちらを振り返った。
その顔に、一瞬ノイズのような“揺らぎ”が走った。
目元がぶれて、口元の動きも曖昧にかすれる。
“見えているはずなのに、顔がわからない”――そんな恐怖が、ユイの胸を突いた。
(いや……やだ……)
(消えないで――リョウくん!)
(このまま背を向けられたら、もう――)
「待って……!」
思わず声が漏れた。
気づけば、ユイの脚は地面を蹴っていた。
何かを説明するよりも前に、心が叫んでいた。
(どうにかしなきゃって思ったら、脚が動いてた)
⸻
その瞬間――
胸元のペンダントが熱を持ち始める。
首筋に沿って、焼けつくような感覚。
視界がふらつき、周囲の音が遠のいていく。
「ユイ!? おい、どうした――」
ケイタの声が遠ざかる。
空が、ぐにゃりと歪んだ。
⸻
まるで、“世界の端”が崩れ落ちるように。
そして、その向こう側へ引きずり込まれるように――
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