お婆ちゃんの柿の木

ガス

お婆ちゃんの柿の木

「お婆ちゃん、大丈夫?」


 縁側でボンヤリと庭を眺めていた私に、彼女は不安そうな顔で話し掛けてきた。


「大丈夫、ちょっと庭を眺めていただけよ」

「お婆ちゃんって庭を眺めるの好きだね~。この庭って柿の木くらいしかないのに、良く飽きないね」

「思い出が沢山有るのよ……」

「ふ~ん。まぁ、お婆ちゃんが楽しいならいいけどさ」


 そう言って私の隣に座ったのは孫のメグ。大学とアルバイトで忙しいはずなのに、こうして足しげく私の様子を見に来てくれる。とても優しい子だ。


 私の名は静子しずこ。伴侶を亡くし、今は彼の残した一軒家で一人暮らしをしている。2年前に夫が持病で寝込んだ時、メグは自らの意思で近所に越して来てくれた。私達をサポートするために。


「ちょうど一人暮らしをするつもりだったから」


 そう言って微笑んだメグは、本当に天使のようだった。不思議で仕方が無かった。どうして彼女は、こんなに清らかなのだろう。私の……私とあのヒトとの血を受け継いでいるのに。醜く淀んだ、私達二人の血を……


 私が夫と結ばれたのは、もう50年も前のこと。


 夫の実家は、地元でも有数の資産家だった。同世代の女性は誰もが彼に憧れを抱き、我こそが彼に相応しい伴侶だと競い合った。一方の私は、特に優れたところのない平凡な女。しかし夫は私を選んでくれた。なんのとりえもない、平々凡々な私を。


 嬉しかった。私は二つ返事で彼の下へと嫁いで行った。迷いなんてあるはずがない。私の幸せはそこにあると、信じて疑わなかった。そして半年後、私と夫の新生活が始まる。


 思っていた通り、夫との暮らしはまさに理想を絵にかいたような物だった。貧しかった私にとって、お金に困らない生活は生まれて初めてのこと。日々の生活費も、遊興費も、夫は十二分に与えてくれる。私の実家にも巨額の仕送りをしてくれた。家事で失敗しても怒られたことは無い。包丁で指を切ったと言ったら凄く心配してくれた。夫は本当に私を愛してくれていたと思う。私も夫を支えようと、内助の功であろうと全身全霊で彼を支えた。


 しかし、私は夫を裏切ってしまった。


 夫以外の男性と関係を持ってしまったのだ。相手は夫の仕事相手。夫が仕事終わりに食事をしようと、家に招いたのが彼との出会い。それから度々、夫は彼を招き入れた。


 彼と過ちを犯したのは、出会いから半年後のこと。その頃は、私も彼と友人のような間柄になっていた。ある日、彼は一人で我が家に訪れた。夫から先に家に行ってくれと言われたらしい。その頃は繁忙期で、夫にはまだ仕事が残っていたという。夫から電話で頼まれ、私は彼を接待した。それから一時間後、夫から「今日は帰れない」と連絡が入る。


 その後の事は、正直に言うとよく覚えていない。私は彼に勧められ、強くもないお酒を飲んだ。そして気が付いたら、私は裸で彼と寝ていた。何があったのかは疑いようもない。


 私と彼は「無かったことにしよう」と誓い合った。それなのに、私達は気が付いたら連絡を取り合い、不貞を重ねていた。なぜかは分からない。彼を愛していたかと言われれば、ハッキリ違うと言い切れる。それなのに、私は彼との関係を止められなかった。


 そして断罪の時は唐突に訪れる。


 ある日、私と彼は夫の前で罪の告白を迫られた。証拠は全て揃えられ、私達に弁明の余地は残されていない。ただただ謝罪を繰り返し、床に額を押し付けていた。


 特に彼は、夫の会社からすれば下請けにあたる。圧倒的な立場の差に、謝罪以外の選択肢は残されていなかった。先日まで、三人で楽しく食卓を囲んでいた我が家の大広間。それが今や、人生最大の修羅場と化している。


 それでも、私はまだ楽観的だった。優しい夫の事だ、誠心誠意謝罪すればきっと許してくれる。これからは夫のことだけを考えよう。人生をかけて償おう。私達はきっとやり直せる。そう思っていた。


 しかし、それはあまりにも都合の良い妄想だったと気付かされる。


 私が顔を上げたのは、隣で彼の呻き声とグシャッという異音が聞こえた瞬間。反射的に隣を見ると、夫が彼の後頭部を足で踏みつけていた。弾かれたように起き上がった彼。その鼻は押しつぶされ、溢れ出した大量の血液がスーツを濡らして行く。


 そこには、今まで見たことのない夫が居た。その表情は、抑えきれない憤怒と底知れぬ悲しみに満ちている。普段私に見せる優しさなど、微塵も感じさせなかった。私は夫を鬼に変えてしまったのだ。


 それからしばらくの間、夫は彼に馬乗りになり拳を振り下ろし続けた。夫の拳が彼を打ち付ける度に、肉と肉、骨と骨の打ち合う耳障りな音が鳴り響く。それは永遠にも思える時間。拳の皮が破れ、自らも鮮血をまき散らしながら、夫は彼を殴り続けた。


 最初は「申し訳ありません」「許してください」と繰り返していた彼も、いつしか声を発しなくなっていた。そして殴り続けられていた彼の体が、ビクンビクンと痙攣を始める。止めなければいけない、止めなければ最悪の事態になる。私はそう思いながら、動く事が出来なかった。立ち上がることも、声を発することも敵わない。やがて彼の体は、痙攣すら止めてしまった。


 人形のようにぐったりとした彼を見つめ、夫は大きく息を吐きだす。そしてボソボソと呟いた。


「忘れろ……全てを……」


 夫の言葉を理解するのに、数秒を要した。私は慌てて正座をし直し、再び土下座をする。いつの間にか失禁していたらしく、床は生暖かい液体で濡れていた。しかし、そんなことは気にしていられない。


「申し訳ございませんでした……全てを忘れます……全てを忘れ、アナタに尽くします……」


 今思えば、その時点で私の最後は決まっていたのかもしれない。


 翌年には息子が誕生し夫婦から家族へ。やがて息子が成長し結婚。孫のメグが生まれ、私と夫の両親は鬼籍に入る。ある意味、私達は順調に歳を重ねて行った。


 しかしその間、私は一度たりともあの日を忘れた事は無い。忘れろと言われても忘れられなかった。毎日心の中で謝罪を繰り返し、夫に尽くした。あの日の事は二人だけの秘密。そして今は、私だけの真実……。


「お婆ちゃん!」


 メグの声に私の意識が現代へと連れ戻される。


「もぉ、またボ~っとしちゃってぇ」

「ごめんごめん。私も歳だからね、そろそろボケが来てもおかしくないのよ」

「なに言ってるの、お婆ちゃんはまだまだ若いじゃない」

「そんなことないわ。もう何時お迎えが来ても、おかしくないもの……」

「お婆ちゃん……」

「……私の人生は後悔ばかりだった。でもアナタのおかげで、最後だけは穏やかに過せているわ。ありがとう、メグ」

「そんな寂しいことを言わないでよ、お婆ちゃんの人生は私の理想なの」

「理想、ね……」


 孫の言葉が、私の胸を抉る。


「お金持ちの男性と結婚して、ずっとオシドリ夫婦で、子供も立派に育て上げて、孫からも愛されてて、老後は縁側でゆっくりとお茶とお菓子を楽しむ……文句のつけようがない、幸せな人生じゃない」


 孫は知らない。それらは全て、弱くて脆いハリボテの幸せ……触れれば崩れる砂の城であることを。


 私はあの日の事を忘れられなかった。そしてそれは夫も同じ。夫はあの日からずっと、私に触れようとしなかった。家族に向ける笑顔の裏で、私への愛情は枯れ果てていた。ただ家系を守る為だけの仮面夫婦。それが私達の真実だった。


「そうだ、お婆ちゃんって若い頃は畑仕事してたんでしょ?」

「結婚する前だから、もう50年以上も前だけどね」

「だったらさ、その経験を活かしてガーデニングをやってみない?」

「ガーデニング?」

「お庭を改装してさ、おっきな花壇を作るの。家庭菜園でもいいなぁ」


 孫の提案に、私は背筋に冷たいものを感じた。


「庭を、改装?」

「そうそう。庭の土を掘り越して、お花や野菜を育てるの。柿の木は邪魔だから、別の場所に植え替えてもいいかもしれないね」

「で、でも、お婆ちゃんもう腰が悪いから……」

「それじゃあ私がお花の世話をしてあげる。殺風景な庭よりカラフルな花壇を眺めていた方が、お婆ちゃんも嬉しいでしょ?」

「メグは大学とアルバイトで忙しいんでしょ? そんな事をしてる暇は……」

「大丈夫大丈夫、お婆ちゃんが喜んでくれるなら何てことないよ。お婆ちゃんのためならアルバイトを辞めたって……」

「ダメよ、そんな簡単に辞めるなんて言っちゃ」

「お婆ちゃんにはいつまでも元気でいて欲しいの。せめてお爺ちゃんが見付かるまでは。そのためだったら、私なんだってするよ」


 心臓を鷲掴みにされた気分だった。


 そう、夫は行方不明とされている。一年前にはメグの勧めで捜索願も出された。でも私は知っている。私だけが知っている。夫が二度と戻ってこないことを……


「お金のことなら心配いらないよ、手作りすればそんなに掛からないからさ。まぁ、木を掘り返すのはプロに頼まないとだけどね」

「……そう、ね」

「もちろん無理にとは言わないよ。私はただ大好きなお婆ちゃんに、喜んで欲しいだけだから」


 孫の眩しい笑顔が、またしても私の胸を締め付ける。長い人生で、これほど苦しいと感じたことは無い。夫を裏切った時よりも、不貞が発覚した時よりも、彼や夫を失った時よりも……苦しくて、胸が張り裂けそうだった。


「メグ……」


 もう全てを打ち明けたい。孫に全てを打ち明け、懺悔をしたい。例えどれ程蔑まされようとも、恨まれようとも……。そもそも私には、清らかなメグの祖母でいる資格なんて無いんだ。


「メグ、私は……お婆ちゃんは……」

「あっ、ゴメンお婆ちゃん、私そろそろ帰らないと」

「メ、メグ……」

「それじゃあまた来るから、良かったら考えてみてね」


 私には懺悔すら許されないのか。何とか言葉を絞り出そうとする私に背を向け、愛する孫は私の前から立ち去ってしまう。私は彼女を止めることが出来なかった。声を出すことも、立ち上がることも出来なかった。あの時と同じように。


 それからしばらく、私はメグの消えた廊下を見つめていた。いつの間にか日も暮れ、吹き抜ける夜風の冷たさで正気を取り戻す。


「アナタ……」


 私は重い腰を上げ、フラフラとした足取りで庭に出た。そして古い柿の木の下で跪く。


「アナタ……私を、呼んでいるんですか?」


 一年前、夫は今際の際で私に言った。


(許さない……50年間ずっと……俺が殺したかったのは、お前だ……)


 アナタが言うように、私は誰にも許されてはいけない。許されないまま、人生を終わらせなければいけない……


 その時、柿の木に立てかけられていた脚立に気が付いた。都合よくロープも一緒に置かれている。確か片付けたはずなのに……


 いや、今はそんな事はどうでも良い。あの時、一度は捨てようと思っていた命なんだ。私は脳裏に浮かぶ疑問を打ち消し、ロープを手に取った。


「さようならメグ、どうかアナタは幸せになって……私のようになっちゃダメよ……」


 そして私は全てを終わらせた……何もかも投げ出して。




 ……それから、一週間が過ぎた。


 お婆ちゃんへの最後の別れを済ませた私は、控室でボーッと外を眺めていた。火葬場の庭園は青々とした芝生と、キレイに整えられた樹木で彩られている。お婆ちゃんの庭とは別次元の美しさだ。


「メグ、大丈夫?」


 母が心配そうな顔で声を掛けてくる。


「大丈夫、ちょっとお婆ちゃんちの庭を思い出してただけ」

「そう、あまり思い詰めちゃダメよ?」

「分かってるよ。最初はショックだったけど、今はだいぶ落ち着いてる」

「メグはお婆ちゃん子だったからね……辛かったらいつでも帰ってきなさい。無理しちゃダメだからね」

「うん。ありがとう、お母さん」


 母は私の頭を撫でると、震えるスマホに気が付き席を立った。私は母の背中を見つめながら、ふと脇に置かれた新聞を発見する。待ち時間の暇を潰すために置かれているのだろう。私は新聞を取りに行こうと腰を浮かせたが、やっぱり止めた。一週間経っても、きっとあのニュースは載っているだろうから。


 一週間前。お婆ちゃんは自宅の庭で、遺体として発見された。柿の木にロープを取り付け、首を吊って死んでいたらしい。警察の検視により、お婆ちゃんの死は自殺と断定。しかし葬儀を行うまでに一週間も掛かってしまった。その理由は、庭でお婆ちゃん以外の遺体が……他殺死体が発見されたから。


 それは庭の柿の木の下。地面を掘り返すと、二体の遺体が発見された。一体は祖父の物と断定されたが、もう一体の身元は不明。今でも警察の懸命な身元調査が続いている。


 でも、きっとあの遺体は身元不明のまま処理されることになるだろう。40年以上昔の遺体なんて、簡単に特定できるわけが無い。


 そう、私は知っている。あの遺体が、お婆ちゃんの不倫相手である事を。殺したのは祖父。そして、その祖父を殺したのは……お婆ちゃんである事も。


 それは偶然だった。耳の遠くなった二人は、私の存在に気が付かなかったんだろう。祖父はお婆ちゃんを罵っていた。そしてお婆ちゃんの首に手を掛けた。事態の呑み込めなかった私は、二人を覗き見る事しかできない。やがてお婆ちゃんは、テーブルから落ちた重い灰皿を手に取り……祖父の頭に振り下ろした。


 私は気付かれないように家を出た。そしてお婆ちゃんにメッセージを送る。


「ごめんなさい。私もお母さんも忙しくて、暫くは遊びに行けない」と。


 それからのお婆ちゃんの行動は、私の予想通りだった。だって私は、祖父の罵りを聞いていたんだから。お婆ちゃんは、きっと祖父の死を隠そうとする。なぜなら、真実が明るみになる可能性があるからだ。


 伴侶を殺害しただけじゃない。お婆ちゃんが一番隠したかった事。それは祖父が50年かけても、お婆ちゃんを許せなかった事実。


 父が祖父の子ではなかったという事。祖父の血が、途絶えていたという真実。


 そして私は考えた。これから、どうするべきか。そして……


「メグ、ちょっといい?」


 片手にスマホを持った母が、再び私の下へやってきた。


「今お婆ちゃんの弁護士さんから連絡があったの。お婆ちゃん、遺産の相続人をメグに変更してたんだって」

「えっ? 本当に?」

「お婆ちゃん、メグにはいつも苦労を掛けて申し訳ないって気にしてたからね。お婆ちゃんなりの感謝の気持ちだと思う」

「そっか……」

「どうする? 大金を持ってるのが怖いなら、相続放棄の手続きがいるんだけど」

「……お婆ちゃんの意思は尊重したい」

「分かった。まぁメグなら無駄遣いもしないでしょうし、そのまま相続手続きしておくね」


 母が立ち去った後、私は両手で顔を覆って俯いた。


 全ては狙い通りだった。お婆ちゃんの考えることなんて丸わかりだ。私の言葉でどう動くのか、私の行動をどう感じるのか。私には全てわかり切っていた。だって私は、お婆ちゃんの事が大好きだったんだから。


「ありがとう、お婆ちゃん」


 私は込み上がる笑みを必死にこらえながら、お婆ちゃんの犯した罪に感謝した。

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