006 マヤヒールは『お馬さん』、アミールは『お坊ちゃま』
アーナヒターが朝食を終え部屋に戻ると、召使たちが外出用のドレスへ着替えるための準備をしていた。
アミールはゴバール卿に許しを得て、アーナヒターを外に連れ出すようだ。着替えが終わると、部屋の前でアミールが待っていた。
「アミール? どこに行くの?」
「急にすまない。手伝ってほしい事がある」
手を引かれ門前まで歩く。そこには珍しい動物がいた。
「えっ? お馬さん?」
門の内側には、額に三日月のような
「こいつを捕まえに高原まで行ってきた。どうだ? 良い馬だろう?」
「まぁ。強そうね。馬に乗るの?」
「マヒヤール。アーナヒターだ。ははは。お姫様だからな。大切に扱えよ」
「お姫さまって! 違うでしょ!」
マヒヤールは耳をピンと立てて、アーナヒターを見つめる。
優しく微笑むような眼をしていた。そして、話しかけるように口をモグモグと動かす。
「アーナヒター。マヒヤールが君を気に入ったみたいだ。撫でてやってくれないか?」
馬を見るのは初めてだったが、こんなに優しい瞳をしていると思わなかった。今度来るときは飼い葉を用意しておこう。
「アナよ。マヒヤール。よろしくね!」
アーナヒターは家族だけが呼ぶ愛称でマヒヤールに挨拶をした。仲良くなりたい。可愛らしいのだ。無性に何かを食べさせてあげたくなる。
「カヴァス」とアーナヒターは衛兵の一人に声を掛ける。「馬が食べそうな野菜を持ってきて! 水もね」
アーナヒターは馬の頭を撫でながら、持ってきてもらったニンジンや葉物野菜を与える。マヒヤールはキラキラの瞳をアーナヒターに向けていた。
「ちゃんと、ご飯食べさせてたの? アミール?」
「あげたよ? うん? 今日はまだだな」
「そんな事じゃ、マヒヤールに愛想をつかされるわよ」
王族として育ったアミールは身の回りの世話などは行ったことがない。ましてや、馬の世話は人に任せっきりだった。アミールは、マヒヤールに悪いことをしたと自覚をしたらしい。しゅんとしていた。
「……ごめん」
「いーのよ」
アーナヒターも前世を思い出すまでは同じようなものだった。貴族の娘は、家事は一切できないのだ。この様子だと、アミールも朝から何も食べていないのだろう。
この御仁は多分鈍い。
もう一度門番を呼び、アミールのために弁当を作らせた。今度は、こっちがキラキラの瞳をしながら食べている。
「アーナヒター? 私も愛称で呼んでは駄目だろうか?」
「駄目よ。お父様とお兄様とマヒヤールだけよ」
「つれないなぁ。そろそろ出かけないと遅れてしまう」
「どこに行くの?」
「着いてからのお楽しみだ」
ゴバール卿が挨拶に出て来た。
馬を一瞥し、使用人に命じて馬の鞍を整えさせる。
アミールは馬を捕まえて、途中で水浴びをして、そのまま
アーナヒターが鞍の無い馬に乗れるはずがない。
野性的で生存本能は強いが、つくづく『お坊ちゃま』だなとアーナヒターは思った。
ただし、アーナヒターを馬に乗せる仕草は洗練されていて、不安を感じさせないよう細やかな気配りができている。女性にこなれた感が鼻につきイライラした。
「とっかえひっかえで有名だったものね。この女ったらし」
「え? いきなり? 酷いなぁ。アナは」
「アナって呼ばないで! なれなれしい」
ぞんざいに扱われても笑っている。こんなところは好感が持てた。
アーナヒターが馬にうまく乗れたことを確認してから、アミールは手綱を引き前進させる。
アーナヒターはゴバール卿に笑顔を見せ「いってきます」と伝えた。
王と娘を見送ったゴバール卿は、やれやれと溜息を吐く。
「若い者は騒がしくていかん」
そこへ、王の軍隊である不死隊の兵士が急ぎ現れた。ゴバール卿の目の前へ
王城に使える者は、最近は顔色の悪い者が多い。この男も何日も寝ていないような、真っ黒な
「娘殿とご一緒に王城に参られたし。
ゴバール卿はふむと顎を撫でだ。
王は先刻、アーナヒターと楽しそうに出かけたばかりだ。
(はてさて、王城では誰が自分を呼んでいるのか。まぁよい。何か裏があることは、確かだからな)
「娘は流行り病で起き上がれない。王にはゴバールが一人で行くとお伝え願いたい」
アミールの顔を思い浮かべながら、ゴバール卿は頷いた。
(歳から考えるとあのくらいが妥当だ。王城で謁見する若き王は、貫禄はあるが老人のようではないか。『シェブ・ホルシード』がある限り、どちらが本物かなんて愚問にすぎない)
ゴバール卿は、あれこれ策を考えながら屋敷内に入っていった。
馬に乗ると景色が大きく広がる。塀だらけの複雑な道でも普段よりかなり見通しがよい。街中から郊外に出ると、アミールはアーナヒターの耳元で「少し飛ばすぞ」と囁く。
アミールはアーナヒターを大きな体で包み馬を駆る。
初心者のアーナヒターにもわかるくらい、彼は騎馬技術に優れていた。
マヒヤールは、三拍子から四拍子へリズムを変え飛ぶように走る。すると、景色は先刻までとは比べ物にならないくらい高速で流れる。
ざくっざくと砂を蹴って走る音が、静かな砂漠に響いた。
彼の体幹は全くブレない。気が付いたら、アーナヒターは安心して体を預けていた。
空は青く、雲は流れ、風を切って走る爽快感は、前世でも感じたことがない。
砂嵐が創った壮大な砂の波紋。遠くまで続く砂丘。燦燦と照る太陽。
アーナヒターは上を向き、アミールの顔を覗き込む。男らしく筋張った首筋が見え、金色の瞳は遠くを見ている。
その瞬間、なんとも言えない想いが浮かんだ。
そう、この男は間違いなく王なのだ。王になるべく存在している。
しかし、王城で謁見した若き王には、神聖な王性を感じることはなかった。邪悪で禍々しい気配しか感じられなかった。
(どちらが、本当のアミールなのだろうか? こうしていると、あの時の王とは、姿かたちこそ同じだが別人に思える)
アーナヒターには全くわからない。
アミールは、アーナヒターを居城に呼びつけ、欲望のまま行動しても許される人間なのだ。それなのに、――どんな理由で自らゴバール邸に訪れたのだろうか。
考えれば考えるほど何もわからなくて諦めた頃に、遠くにオアシスの緑が見えてきた。
砂漠の地面の下の水脈が溢れ出し、川になっている先に集落がある。その中心部に水の神殿が佇んでいる。
アミールは馬の歩を緩め、川の水面をじっと見つめていた。
彼の見る方向を見ると、アーナヒターにも異変は見てとれた。水面の底から、沼の水のような濁った緑色が湧き出している。
「これは?」
「穢れだ。浄化が必要だ。人間の浄化はできても、水の浄化は私にはできない」
アミールは水殿を指さす。
「今のところ、水殿の青い炎が水の穢れを清めている。だが、炎に水の浄化は難しい。抑えきれなくなれば、青い炎は消滅するだろう。だがな、アナなら清められる」
「わたし?」
「ああ。白薔薇の加護は、どんな属性も清める事ができるからな。特に水の浄化は最も適性がある」
水殿の近くまで馬を進めると、アミールは馬から下りアーナヒターに手を差し伸べる。神殿の入り口には、青い炎のかがり火が焚かれていた。
首都の神殿は紅蓮の炎であるのに対して、この水殿は真っ青で熱を感じさせない炎が燃え盛っている。
「ここに来るのは初めてか?」
「うん。初めて」
アミールは長衣の裏側の
「この間の
「ええ」
「それではいくぞ」
アミールはアーナヒターの手を取り、水殿の中に歩を進めた。
続く
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