第二章 水の神殿と悪霊の闇
005 『あいのうた』を奏でる
砂漠に住む人々は、白い漆喰で石壁を塗ることによって、暑さを軽減する工夫をしていた。背の高い外壁は、歩道に日陰をつくり、街の中は比較的歩きやすい。
アミール・ファリドは、ゆったりとした長衣を頭から被り、とある屋敷の門前に現れた。
「シャープール・ササーンが来たと家主に伝えてほしい」
『ササーン』という名は、この国の王族に使われる苗字だ。法衣を着た門番が不審そうにアミールをジロジロと見る。
アミールは、面白モノでも見るような笑みを浮かべた。
顎をひと撫でした後に、長衣の裾から『シェブ・ホルシード』を出して弦をはじく。心地よい音が鳴ると、バルバットは楽器から剣に姿を変える。
この帝国の者は子供の頃から建国の神話を教えられている。
初代皇帝に降嫁した女神はバルバットの名手で、戦になると、バルバッドを武具に変化させ先陣を切る。
そのバルバッドは、女神の子孫である、
「お、お待ちを。ただいま主人に聞いてまいります」
真っ青に顔色を変えた門番は一目散に門の中に消えていくと、血相を変えたゴバール卿と共に戻って来た。
「
「隠密行動でな。今は、娘の婚約者として扱ってほしい。私は若輩だ。最上級
「まったく。王よ。お戯れが過ぎますぞ」
「アミールと呼ぶように」
「アミール様、まずは中にお入りください」
「敬称は要らぬがな。まぁ、いいか」
どこを見ても高い漆喰の塀だらけのこの街は、一歩門を潜ると、楽園のように姿を変える。
静けさの中に、緑が生い茂り、水の流れる音が心地よく広がっていた。耳を澄ますと、小鳥の鳴き声が微かに聞こえる。回廊にぐるりと囲まれた庭園は、艶やかな花が咲き、清らかな小川が流れている。
探し人は、ブーゲンビリアの花影でひっそりと書物を読んでいた。
「――アーナヒター」
彼女はゆっくりと頭を上げ、アミールを見上げる。
今日は、その瞳に鮮やかな花の色を映していた。彼女の銀色の髪がさらりと肩に落ちる。
「アミール?」
「うん」
「どうして?」
「王は外出なんてしないなんて思っていた? 私は違う。何よりも自由が好きだ。君と似ていると思わないか?」
アーナヒターはふわりと微笑み、
「甘くておいしいわよ」
アミールに向かって杯を捧げた。この女性は自分を王として扱わない。それが、とても新鮮に思えた。最初から友のように気さくに話し掛けてもらえたことは、記憶の限り初めての事だった。
王城に居たときは、
心臓が煩く騒ぎ、触れたいような、触れて汚してはいけないような、不思議な気持になる。
「とうしたの? 座ればいいのに」
「ああ」
アミールは、タイル張りの露台の上の
彼女は不思議そうに、白薔薇のような瞳で瞬きをする。
この女性は無垢な子供ではないだろうか?
(そうだ。この女性は、成熟していない子供なのだ)
高鳴る胸に翻弄されながら、アミールはそう結論付けた。饒舌さにかけては自信があったアミールだが、彼女を楽しませようと言葉を選んでも、舌先を滑り何も言葉にできない。
やっと言葉にできたのは、ここに来た目的の一つであった音楽のことだった。
「宴の席の歌だが、あれはどこの吟遊詩人の作だ? 聞いたことの無いものだった」
「あれは……、母から聞いた曲です」
嘘では無かった。遥か昔の前世で母から聞いた曲だった。今生でも母は幼い頃に亡くなっている。
アミールは神妙な顔をして、考えを巡らせていた。
「君には、恋に破れる歌は歌ってほしくない」
なぜそんな気持ちになるのか。アミールは自身でも困惑していた。だが、無性に嫌なのだ。アーナヒターが誰かに汚され、捨てられることが。しかも、そんな男に恋着しているなど、歌であってもいたたまれない。
「いい曲だったでしょう? わたしが下手だったから?」
「違う。君にはもっと相応しい曲があるというだけだ」
「へぇー、どんな曲?」
アミールは金糸で刺繍された腰帯にそっと手を当てると、帯剣していたシェブ・ホルシードがバルバットに変化した。
胡坐をかいた膝にバルバットを抱えるように持ち、曲を奏で始める。それは、昨晩アーナヒターが出した音より、滑らかで、数倍美しい旋律だった。
彼は、女神に愛を捧げる王の
アーナヒターに口伝するように、ゆっくりと間をおいて歌う。
彼の歌声は透明な水のようにアーナヒターの心に浸透した。
男性らしい低いキーは、魅惑的な果実酒のようだった。
甘くてこっくりとしていて、オレンジに似た香りがする。
アーナヒターに『あいのうた』を刻むように歌い、彼は屋敷を去っていった。
残されたアーナヒターは、その曲を口ずさむ。
父親も王から賜った曲を歌う事に反対はしなかった。彼女は曲に魅了されてしまったように、自分のものになるまで何度も歌う。
彼女のキーで歌うその曲は、甘く喉を潤す月下の果実のようだった。
そんなある日、何の前触れもなく再びアミールは現れた。
続く
※1
正倉院にある重要文化財の『白瑠璃碗』はササン朝ペルシアで造られたものらしいです。
すごいですよね! 日本では古墳時代だったようですよ。
このお話はササン朝ペルシャが舞台となっています。但しすべて架空の名称に変更しております。
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