第35話 三影の沈黙

 三影はゆっくりと振り返った。


 視線の先には、剛の背中があった。だが、それは「姿」でしかなかった。 あの瞬間、確かにそこにいたはずの剛は、確かに「居なかった」。


 三影の呼吸がわずかに乱れる。

 この男の表情に変化が現れることは、ほとんどない。

 だが今、その目の奥には、何か熱を孕んだものが揺れていた。


 「……まさか、ここで見ることになるとはな」


 誰に語るでもなく、三影は呟く。 観客のざわめきが少しずつ戻ってくるなか、彼だけが別の時間の中にいた。


 自らが長い年月をかけてたどり着いた“無意”の領域。

 そこに至るには、幾千の実戦を越えるしかなかった。


 だが、いま目の前で、それを一瞬だけ“超えた”者を見た。


 まだ完全ではない。まだ不安定だ。

 だが確かに、この男は触れた。

 “先の先”のさらに先、消える在り方に。


 三影は拳を下ろした。

 構える理由がもうなかった。


 「……これ以上やれば、俺が壊れる」


 その言葉に、レフェリーが静かに頷き、合図を送る。

 試合終了。


 観客は歓声を上げられない。

 勝敗を超えた何かが、今ここで交わされたのだと、

 言葉にできずとも全員が理解していた。


 三影は一礼する。

 剛はそれに応えなかった。

 ただ、静かに歩き出していた。


 誰にも語らず、何も示さず、

 あの“場”から、ゆっくりと立ち去っていく。


 三影はその背中を見送りながら、

 ほんのわずかに、口元を緩めた。


 それは敗北ではなかった。 だが、確かに打ちのめされていた。


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