第34話 輪郭の消失

 視界の輪郭がぼやけたわけではない。

 音が消えたわけでもない。

 だが、剛の中で、何かが確かに“溶けた”。


 構えが、呼吸が、視線すらも——すべてが自然に解かれていく。

 自分という存在を「操作」していた手綱が、ひとつずつ、手放されていく。


 相手の動きに対する「予測」もない。

 「対処」もない。

 「考え」もない。


 だが、その中心に、確かに「在る」ものがある。


 それは意識の外側にひそむ“それ”であり、

 同時に、あまりにも無防備な“ただの自分”だった。


 三影が動いた。

 剛の目にはそれが“動き”として捉えられなかった。

 だが身体は、三影の気配に先んじて、すでに空気を抜いていた。


 ぶつかる気配が消えた。

 交差するはずの軌道が、どこにも存在しない。


 “先の先”を取る者に対して、もはや先も後もなかった。


 そこには、ただ「剛の不在」があった。


 三影の掌が、剛の肩をすり抜けるように通過する。

 その瞬間、風が巻き起こる。


 二人の身体が、触れ合うことなくすれ違う。


 観客席が静まり返る。

 何が起きたのかを理解できない空気が、場を支配する。


 剛は振り返らなかった。

 振り返る必要がなかった。

 すべては、すでに終わっていた。


 彼は、今、そこに「居なかった」のだ。


 それこそが、“先の先”の先——

 意すらも捨て去った空白の境地だった。


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