第3話 山に通う

 教えはなかった。

 稽古もなかった。

 約束もなければ、言葉もない。


 それでも、剛は山へ通った。


 夜明けとともに山を登り、

 祠の前に着くと、小男――伝承者は変わらずそこにいた。


 そして、何も言わず、何も見せず、ただ木刀を振っていた。

 斬るでもなく、打つでもなく、ただ空を割るような動き。

 柔らかく、力強く、それでいて何の型にも嵌らない。


 剛は最初、理解しようとした。

 どんな流派か、どんな足運びか。

 どこで力を入れ、どこで抜いているか。


 だが、見れば見るほどわからなくなった。


 踏み込みがない。

 間合いが曖昧。

 速度が不定。

 打突の音すらしない。


 まるで、“何もしていない”かのようだった。


 それでも、剛の中には確かに何かが残っていった。


 一日が終わるたび、背中に汗がにじんでいた。

 ただ座って見ていただけなのに、

 腕が重く、膝が痺れ、肩が軋んでいた。


 動いていないのに、

 “何か”が自分の中で、ずっと闘っていた。


 通い始めて一週間が経った頃、

 伝承者はふと剛を見て、木刀を手渡した。


 「使っていいぞ」


 それだけだった。


 剛は礼をし、木刀を握った。

 久しぶりの感触。

 だが、いつもと違った。

 重い。いや、手が浮いてこない。


 構えようとした。踏み込もうとした。

 だが、“間”があった。


 自分の中に。

 この空間に。

 伝承者と自分との間に。


 あの日、この小男に敗れたときと同じ気配。

 しかし今は、“終わる”というより、

 “自分がここにいない”ような感覚だった。


 まるで、存在が空白に吸い込まれるようだった。


 剛は動けなかった。

 一歩も、振りも、気合も出せなかった。


 やがて夕陽が差し、伝承者が木刀を下ろすと、

 剛はそっとそれを地面に置いた。


 何も起きなかった。

 だが、深い何かが削られていた。


 下山の途中、剛はふと立ち止まった。

 風の音が、妙に耳に残った。

 鳥の気配が、妙に近く感じた。


 “間”が空気に滲んでいた。

 剛の中にではない。

 世界そのものに、“間”というものが存在していた。


 それを感じるために、

 剛はまた、明日も山を登ることを決めた。

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