第19話 もう、お前の自由を奪える者はいない
「あの時の、
がなり声や悪声、または濁声と呼ばれるべき咆哮に、俺は聞き覚えがあった。そう、聖峰メル山でトライポフォビアを一掃した、あの聲だ。
それだけに解せない。聲の主がヌル――いや、霊聲のシャフレヴェルであるならば、氷塊に囚われていたはずだ。今更、彼が尋常な
いくら
あり得ない、と俺が思うのはシャフレヴェルが魔星復活の情報を有していなかった点による。外界の情報を得られるのならば、勇者の不倶戴天たる魔星が再び行動したのだ。僅かでも氷の牢獄の外を感じられるのならば、いくらメル山が下界と隔絶しているといっても、魔峰から濃く燃え立つ魔の気配に気づかぬはずがない。
解せない。だが、現実に、帰還した勇者シャフレヴェルの霊聲はあの時同様に魕族を打ちのめしている。
如何なる理屈かはわからないが、聲そのものに質量が存在しているとしか思えない。属性のない、無色な攻撃。物理攻撃にも似たそれは、しかし完全に霊的な要素に支えられている。
話には聴いたことがあった。
世界を塗り替え王国を築き、自身が中心に坐す故に、それは〝
確かに解析ができない。再現するにはどうすればよいのか、全く理解できない。まるで初めからそのようなものとして決定されていたような……。
思えば、〝玉座〟の開花も謎に包まれている。突然覚醒する、無自覚に行使している、とうに覚醒しているというのに使い方がわからない等々、規則性がないのだ。
だからこそ、〝玉座〟は預言とも福音とも秘蹟とも称される。魕族という天敵を斃すための、或いはこの世界を超越するための、見えざる神からの祝福。なるほど、誰の手に、いつ、どのように、と規則性のない自身だけの座が顕れたとしたら、俺だってそう感じるだろう。
法則にない、魔にも近しい法則――。
口端を拭うヌル――いや、霊聲のシャフレヴェル。
霊聲と称される歌聲は、ただそれだけで世界を侵食する。才覚と特性で立脚した、王道から外れた
「ヌル……お主……」
当然に彼の正体を知っていたのであろう静水のホルダードは、シャフレヴェルを案ずる声を吐く。無理を圧しての霊聲なのは明らかで、名無しの衣を剥いだ
「気にするこたぁねえ。こいつを仕留めなきゃ、どうせ先はねえんだ」
吐き捨てた血の塊には臓器か喉の筋肉の一部が混じっていたのか、粘性の音には重みがあった。覿面な破壊力を約束する異能は、それだけに使い手の肉体と生命を確実に蝕んでいた。
「それに、だ。これだきゃあ、俺にしかできん」
「ッ……」
シャフレヴェルがやせ我慢に笑みを浮かべるも、既に彼の表情に浮かんでいるものは死相と呼んでいい。キジャクが先達の凄然なる姿に息を呑む。
「██████████████‼」
再びの霊聲。単純な破壊エネルギーへと変じられた
「██████████――ガッ、ゴボッ!」
喀血。血の気も引き、とうに死に瀕しているというのに、精神力と魂魄の強度だけで肉体を奮い立たせている。限界は既に遠い彼方に置き去って、シャフレヴェルは霊聲を放ち続ける。
「や、れ……。魔星を……断、て!」
途切れ途切れのシャフレヴェルの声に応じて、聖剣〝美と適合〟が長大な光刃を形成し、そして。
「オオオオオオオオオオオオッ!」
獅子吼と共に魔を断つ刃は振り下ろされ――
それは致命的で、破壊的で――
絶対的な〝死〟を呼ぶ
魔星の巨軀を断つ――寸前。
「 ッ!」
もはや、止められぬ。もはや、確定してしまった結末。
もうキジャクさえも止められない、剣が――
聖剣が、魔星の内の玉座に坐す者を断つ――断ってしまった。
ドレスが鮮烈に、椛が如くに朱く染まる。黒い羽根が散らばる。
――ああ、記憶が流れ込んでくる。
魔星は斃れた。霊聲による、決死の絶叫を前にして弱った魔星は、聖剣の一太刀にて墜落したのだ。巨星は墜ち、そして――。
同時に、奪われたモノがある。
全てを憎み、全てを呪い、全てを破壊する。魔星の
「アズナ……」
おかしい。何故だ。何故、こんなことが起きる?
手に入らない、手に入らなかった花。
意図せずとはいえ、婚約者に手折られた花は何を思ったのか。うめき声一つ残さず、姫君は弑された。
己を剣と定めた男が、その持ち手である筈の主を手にかけ、立ち尽くしている。孤剣が――その手にある聖剣が――〝美と適合〟が――アズナの鮮血に濡れている。
主の生命を奪った事実に震えもしない在り方は、自身の心情を封じているのは確かに剣としては正しいのかもしれないが……。
否。
許せるものか。許してなるものか。
激情。憤怒と呼ばれる感情が駆け巡る。世界が――
世界に対する生理的な嫌悪、その本能すら生ぬるい怨念で燃える溶岩。
たとえ、光を失おうとも。たとえ、闇に身を委ねようとも。世界の敵になろうとも。光も闇も、この宇宙がこの身を滅ぼしにかかろうとも。
そう、これは天啓。或いは預言か、福音か。この世界の根源に位置する
十層のリングが重なり、
マキナとマギア、人類。アルカディア、
光と闇が互いを憎み、相克し闘争する世界の絵図。喰らい合う二匹の蛇。光にも闇にも属さぬ
それらが混じり合い、やがて理路整然とした
程なく、
「シャフレヴェル!」
やはり、だ。もはや誰もが理解していたことだが、駆け寄ったホルダードの声で遂にヌルの正体が顕わとなった。
「うっせ……。だが、やったな……」
色のない瞳の男は、気配で魔星が墜ちた事実を知っていたらしい。偉業、それも魔星を二度に渡って斃した楽聖――
「これからだって……言うのに、よ……」
傍らの五絃棹琴の添えた手には力が殆ど残されていない。その事実をもっとも弁えているのは他ならぬシャフレヴェルであるのに、彼は運命を否む。己を奮い立たたせて震える指で弦を押さえ、爪弾く。
「うっ⁉」
衝撃波は側のキジャクが持つ聖剣を正確に撃った。予期せぬ行動に、身構えもしていなかった
「何を……?」
「…………くそがぁ」
詩曲でさえないというのに現象を顕現させたのは、楽聖の持つ絶技の一端であったが、死の坂を下りつつある身体はこれ以上の自由を彼に与えなかったようだ。張力を失った腕は萎え、もう動くことをやめた。濁龍はとうに終わったのだ。霊聲ももうない。曲を奏でる指も微動だにしない。
そして、その〝
「聖剣、聖剣を……」
力なく睨むしかないシャフレヴェルを、姫君の血で染まった聖剣が見下ろす。
「シャフレヴェル!」
そして、巨星は墜ちる。
そう謳われたシャフレヴェルが今、霊素へと還元される。肉体はほどけて、虹色に染まる霊素が宙をしばし舞い、大気へと溶けていく。
彼が今際の際で、何故聖剣を撃ったのか。疑問を残しつつ、偉大なる勇者は大気へ還っていた。
「…………空で歌え、シャフレヴェル。もう、お前の自由を奪える者はいない」
シュジュの五英傑がかすれた声で呟く。
自由を愛し、しかし自由を得られなかった勇者は空へと消えた。
だが、感傷にふける時間は彼らには与えられなかった。
「なっ……」
誰の狼狽か。
唐突に足元が震える。
地震か。崩落か。
答えは後者。
「いかん、崩れるぞ!」
ホルダードの声に見上げれば、天を覆っていた岩から塵が落下してきている。いや、降る塵は次第に拡大していき、小石から石、石から岩へとその質量と規模を増してきている。
「逃げるぞ!」
否応もなく、勇者たちは魔星の間から離れる。主の〝玉座〟によって維持されていた空間なのか、魔星の死によって全てが灰塵へと化していく。
魔星の間から立ち去る直前、ファルメントが振り返る。魔星の軀は未だそこにあった。特大の魔、
孤剣と流麗の
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