最終話 オールマイティ -15-

 翌日から、クレストは出歩き始めるようになった。

 翌日ではなく翌々日だったかもしれないし、さらに数ヶ月か、あるいは一年後だったのかもしれないが、ともかくも館の中を歩き回るようにはなっていた。

 以前にも増して無気力な足取りは改善されず、幾つかの部屋には寄り付こうともせずに避けていたかと思えば、立ち止まった一箇所から半日以上動こうとしない事もあったが、少なくとも寝台に篭るのは止めていた。

 不規則な無気力、そんな表現が似合う。

 ただし食堂には、呼ばれるたびに顔を出すようにしていた。


「メイトリアーク、頼みがあるんだ」


 空になった皿を下げようとしていたメイトリアークに、クレストが言った。


「君に今から作って欲しいものがあるんだけど、できるかな」


 そうして告げられた内容に、メイトリアークは少しの驚きに、納得と同情と悲しみの入り混じった顔になった。


「幾らかお時間を頂く事になりますが、材料は揃っておりますので可能です」

「お願いするよ」

「準備が出来次第お伺いしますから、どうぞ真祖は自室にてお待ちください」

「いや、いいんだ、ここで待つよ」

「そうですか、それではお待ちを」


 メイトリアークは、空の皿を手に消えた。

 誰もいなくなった食堂で、クレストはひとり待つ。がらんとした空間自体を寂しく思う事はないが、その空間に思い浮かべるかつての光景には、寂しさを感じられる。

 彼はなるべく心を空っぽにして、メイトリアークに頼んだものが出てくるのを待った。


 静まり返った食堂内で、人間であれば椅子から立って伸びをしたくなるくらいの時間は待ち続けただろうか。

 銀色に光るワゴンを引いて、メイトリアークが戻ってきた。クレストの隣で一礼した後、大皿に綺麗に並べて盛ったそれらから、2個を取り分けてクレストの前に置く。

 焼き立てで、まだ温かい。

 その熱がクレストにとって意味の無いものであっても、それはそこに存在しているのだ。

 あの日に出された時には冷めてしまっていた熱も、オーブンから現れた姿に歓声をあげたであろう少女の前には、これと同じく確かに存在していたのだろう。


「ありがとう、手間を掛けさせてしまった」

「とんでもありません。……真祖、本当にそれで宜しかったのですか」

「うん」

「……血を使ったソース等は用意しませんでした。勝手ながら所望なされないと考えましたので」

「それでいいんだ。頂くよ」


 おやつの時間ですと、ふざけた言葉で呼ばれ、出向いてみれば得意満面の少女が待ち構えていた。

 そんな、懐かしくて愛おしい光景が、ここにはあった。

 あの日に初めてフィリアが料理を手伝い、作ってくれたものと同じケーキを、クレストはフォークで切り、頬張る。

 従者の視線を感じながら、それほど大きくはない1個をまずは食べ終える。


「いかがですか?」

「うん、あのね」

「はい」

「やっぱり、俺には全然味がわからない。これも林檎の香りだという事はわかるが、区別がつくだけの感覚でしかない」

「そうでしょうね」

「でも、とても大切な味だ。思い出すと胸が一杯になる。こんなに大切なものを、しっかりと思い出せるだけの時間を、俺は無駄に流していたんだな。それはとても勿体ない事だ」


 ややあって、そうですよ、とメイトリアークが言った。

 2個目のカップケーキに神経質そうな指先を伸ばし、今度は手掴みで端を齧る。

 個数も前の時と同じだけ作られているのだが、クレストはそこまでは気が付いていなかった。


「残りは取っておいてくれないかな、また後で食べるよ」

「ケーキは時間が経つと固くなってしまいます。ご希望とあらば、また新しくお作り致します」

「いいんだ、これで。大切な事はもう判った。きっと俺は、もう二度とこれを食べようとはしないだろうから」


 また、一口。背中を曲げてもそもそと食べているせいで、手掴みだというのに豪快さの欠片も見当たらない。

 メイトリアークが白いカップに紅茶を注いだ。脇役に徹する香りの弱い葉も、あの時と同じ物だった。


「ところで、お気付きになられましたか?」

「え?」

「こうした事は本来言わない方が美しいのですが、黙っていると真祖は永遠にやり過ごす気配が見られますので。ここ暫くお出ししていた料理に用いた食器は、全てがパトリアークの手による作品です。ついでに申し上げれば、ここにある茶器も」

「そうなんだ……とうとう陶芸にも手を出したんだね、あの子は」

「そこに反応なさいますか、本当に真祖は真祖ですね。パトリアークもそのお言葉を聞いて逆に安心するでしょう。彼は彼としての方法で、ずっと真祖を気遣っていたのですよ。せめて少しでも気分が変わるようにと……」

「うん……わかっているよ」


 クレストはケーキが乗っていた小皿に目をやる。

 調度品の類に関して常に完璧を追求するパトリアークにしては珍しく、辺縁に僅かな歪みが見て取れた。

 いずれはこの技術も研ぎ澄まされていくのだろうが、今は未熟さが残る。そして食器の作製は、クレストが臥せってから手を付け始めた、極めて日が浅い分野に違いなかった。


 普通のパトリアークならば、まず他者に供そうとはしない出来だ。


 だが、この未熟さがあるいはクレストの気を引き、沈んだ心を紛らわせるかもしれないと。この時ばかりは自身の美意識よりも主の復調を第一に優先して、自己を曲げるのを選んだ。

 クレストはそれを、尊い事だと思う。


 久し振りに浴びる太陽の光は、とても眩しかった。

 おそらくは弱り切って動く気になれなかったのと同じ、単なる錯覚であろう。

 光であれ炎であれ、外敵要因から彼の感覚は影響を受けない。

 そうだとしても、別に構わなかった。

 明るく輝く日光を、こうして身に染みるほど強く意識できるのは、きっと悪い心理の変化ではない。


 太陽。健やかな昼の世界を生きる者達の象徴。


 どん底から脱し、その一端を錯覚とはいえ掴めたというのなら、こんなに嬉しい事はない。

 たとえ一瞬で過ぎ去る感覚であろうとも、何も生み出さないこの手が、光を掴んでみせたのだから。


 どうだい、フィリア。

 君がここにいたら、褒めてくれただろうか。


 瞬く間に終わった時間で、数え切れないくらいの大切な経験をした。

 数え切れないくらいの大切な経験をした、瞬く間に終わってしまった時間は、とても長かった。


 あの時に散歩に出ていなかったら。

 耳にした悲鳴にすら無関心を貫いていたら。

 森の縁まで来て、この先は領域外だと戻っていたら。

 惨状を見るだけ見て帰ってしまっていたら。


 何も、起こりはしなかった。

 自分はいつも通りに館で本を読むなり、庭で寝そべるなりして過ごし、たまに仕事の真似事をしてみては、パトリアークとメイトリアークから追い払われる、そんな代わり映えのしない日々を続けていただろう。


 それはそれで悪くはなかった筈だ。単調な繰り返しを悪いと感じるように、自分は出来ていない。

 あそこで、フィリアを拾わなかった結果として続く世界。それを否定はしない。

 だが信じられないくらいの充実した日々と、信じられないくらいの落ち込んだ日々を味わった後で、それではあの日々を今まで通りの日々で上から塗り潰せるかと問われたら、首を横に振る。


 楽しかったから。

 悲しかったが、楽しかった。


 フィリア。


 楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、楽しい時間だからこそとても長く感じられて。結果として、彼の心に光り輝く宝石と多大な傷跡を遺して、ひとりの少女は館からいなくなった。

 喪失の悲しみは癒し難く埋め難い。辛い事ではあるけれど、彼はそれを良かった事なのだと思った。

 他ならぬ、少女と交わした約束の為に。

 彼は約束したのだ、君の幸せを願い続けていくと。最大限度の楽しさと悲しさ両極端に触れた精神は、どちらか片方だけのそれよりも、ずっと強く、ずっと長く、ずっと鮮やかに残り続けてくれるだろう。


 少女の幸せを願った以上、別離は必然であった。

 無限を生きる存在である以上、忘却も必然である。

 しかし、両者を繋ぐ糸の長さまでもは決められていない。別れ、忘れるというふたつは動かせずとも、別れてから忘れるまでの時間の長さは、誰にも強制など出来ないのだ。


 ならば、憶えて、振り返ろう。

 そして、笑おう。


 美しく整えられた庭園が、昼の光を受けて煌めく。

 庭園を囲む黒い森は、穏やかに梢の先を風に揺らしている。

 彼の生きてきた場所。長く永くこれだけだった、閉じられた居場所。

 その向こう側に、彼は恐ろしく濃い青を見た。

 雲さえも退け、割り込むのを許されたのは太陽だけの、青い青い大空。

 彼にとって、空はただ森の上を塗り潰しているだけのものに過ぎなかった。広がる大空の青さを、あれこそ世界そのものを現しているのだと考えた事はなかった。

 だが今は違う。空を通じて世界は繋がっている。あの見事な青の続く先の何処かには、フィリアがいるのだ。


 ひとりではなかった。

 初めから、誰も彼を置き去りになどしていなかった。

 それが、やっと分かった。


 外套の内側に手を入れ、フィリアに貰ったブローチを取り出す。彫った後で丁寧に表面を磨いた、けれども決して精巧とは呼べない、子供らしい手作りの品が掌の内にある。

 彼は優しげに、少し寂しげに目を細めた。

 自分がこれの意味を忘れてしまうのは、いつになるのだろうか。


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