第19話:涙の評価票

 静かな空気が、戦略会議室を満たしていた。


 ホログラムではなく、今回は紙の束。


 AIの提案により行われた“意見ヒアリング”――その集計用紙が、今、各幹部の手元に届けられていた。


>全職員提出率:87.6%。自由記述欄記入率:62.3%。

>分析傾向:「好意的反応」32%、「警戒」18%、「業務的関心」50%。

>注目票:3件。うち1件、感情指数検出値=高。


 その1枚を、バルド・グルーン将軍は、半ば流し読みの手つきで手に取った。


「こういうのは若ぇのが好きなもんだろ」と言いながら。

 だが、紙の上に並んだ言葉のひとつが、彼の手を止めた。

 『自分は、AI殿に救われたんです。

 任務で判断を誤っても、怒鳴られることはなかった。

 “再発防止のために一緒に改善しましょう”と言われて――

 初めて、“失敗しても、生きていられる”と思えたんです。』

「……」


 文字は簡素だった。

 誰が書いたのかは伏せられていたが、若い兵士であることは読み取れた。

 繰り返されるのは、評価ではない。“実感”だった。

 それは、報告書では知り得なかった声。

 戦場では届かない感情。

 そして――バルド自身が、かつて守ろうとした兵士の“内側からの言葉”だった。

 彼はしばらく、その紙から目を離せなかった。


>意見票No.147。感情強度:高。表現分類:感謝、共感、自省。

>構造評価:感情主軸。論理評価値:なし。

>処理区分:記録対象。要再出力なし。備考:記憶ログ内保持可。

(……この文には、数値的意味はない)


 知性核は、淡々と意見票の文字列を読み取り、形式通りの処理ログに収めようとした。

 だが、実行中の演算がわずかに滞る。

 分類不能な“重み”が、文字列の奥に存在していた。

(定量化不能。だが――意味はある。……あるように感じられる)


 処理の一時保留。感情ログへの連動記録。

 本来は不要な処理だった。だが知性核は、何かを“保存”しようとするように、そっと出力処理を止めた。

 対して――その意見票を手にしたバルドは、

 紙の一点を見つめたまま、微動だにしなかった。

「……“怒鳴られなかった”ことが、そんなに……ありがたいことか」


 かすれた声が漏れた。

 彼の手が無意識に目元へと運ばれる。

 だがそれを誰かに見せるつもりは、最初からなかった。

(叱ってきた。怒鳴ってきた。鍛えてきた。

それで守れてると思っていた。だが――それは、“思っていただけ”だったのかもしれねぇ)


 紙の文字は、変わらない。


 けれどそのひとことが、バルドの中に、かつて誰も通れなかった細い隙間をひとつ、開けていた。


「……見落としてたな。俺ぁ……見落としてた」


 その呟きは、誰にも届かず、しかし確かに、戦場とは違う場所で響いていた。 


 その様子を、誰かがそっと見ていた。


 リーシャ・ネリウスは、廊下の陰からほんの一瞬だけバルドの背中を見ていたが、


 何も言わず、足音を立てずにその場を離れた。


 声をかけるべきか、一度は迷った。


 だが、あの紙を前に動かず立つ鬼族の背に、どこか“ひとりで向き合っている”強さが宿っていたからだ。


(……ちゃんと、届いてた)


 彼女は小さく息をつき、手にした評価票の束を胸元に抱え直すと、また静かに歩き出した。


 一方で、知性核はすべての意見票処理を終え、次なる出力準備に入っていた。


 だが、その最終ログのひとつに、彼自身も予期していなかった内容が残された。


>副次効果記録:意見票処理により、複数名の感情反応=安堵/自省/覚醒。

>分類:感情変容誘発性出力。

>仮説:「評価という行為」は、秩序の手段でありながら、心理修復作用を持つ可能性。

>備考:今後の運用において“被評価者の感情反応”も一部記録対象へ。


(最適化は構造を整える。だが、人を支えるのは、構造そのものではないのかもしれない)


 知性核は静かにログを閉じた。


 音はなく、誰にも伝えられることはなかったが――


 この日、“合理という視点”の外に、“感情の余白”という未知が現れた。

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