第二章08 悪女ロズリーヌ・トリオール(無かったことにはならないのだな)
ふと時計を見ると、そろそろ執事のピエールが朝食を運んでくる時間だった。ロズアトリスは大聖女からの手紙を丁寧に畳んで机の引き出しにしまい、鍵をかけた。鍵は机の上の鍵付きの小箱に収め、さらに小箱には鍵をかける。ロズリーヌがロズアトリスであるということを隠すため、念には念を入れている。
小箱の小さな鍵を首から下げているロケットの中にしまったとき、扉を叩く音がした。穏やかな男性の声が入室の許可を求めてくる。ロズリーヌが許可を下すと、燕尾服を着て眼鏡をかけた老年の男性がしなやかな動作で銀のワゴンを押して入って来た。執事のピエールである。
「本日の朝食は蒸し野菜のバーニャカウダと自家製ベーコンとチーズのキッシュ。ローズマリーティーをお持ちいたしました」
執務机の上にまだ温かい蒸気を放つバーニャカウダとチーズの芳しい香を漂わせるキッシュが並べられ、温められた透明なポットにローズマリーの葉とお湯が入れられる。ロズリーヌが食事の前の祈りを終え、バーニャカウダとキッシュをそれぞれ一口堪能した頃合いを見計らって、カップにローズマリーティーが注がれた。ふわりと香り立つ湯気に甘酸っぱい香が乗っている。
ピエールはそこへティースプーン一杯のはちみつを溶かしてくれた。ロズリーヌは火傷に注意しながら、はちみつ入りのローズマリーティーを飲み下す。寝起きで冷えている身体を温めつつ、すっきりと目覚めさせてくれる至高の一杯。
「ピエール監修の料理とピエールが淹れてくれる飲み物はいつも最高だ」
思わずロズリーヌが褒めると、ピエールは「恐縮でございます」と頭を下げた。そうしてまた頃合いを見計らって、ピエールは本日届いたばかりの手紙が乗った銀の盆をロズリーヌの前に掲げたのだった。
封筒に差出人の名は記されていないが、縁を金の薔薇の箔で囲んである。黄金の薔薇は皇室の象徴だ。
ロズリーヌは封筒を手に取り、ペーパーナイフで封を切って手紙を取り出した。
【夜薔薇の君 ロズリーヌ・トリオール伯爵
本日、正午。約束の証書をお持ちいたします。署名のご準備を。
ティモシー・ド・レピュセーズ】
(やはり、無かったことにはならないのだな)
先日の夜会で策に嵌められ、ティモシーと婚約することになってしまったことを思い出す。彼にどのような意図があり、今後どのような策を練っているのかは検討もつかないが、外堀を埋められているので乗るしかない。
ロズリーヌは返事を書こうと手紙を机の上に置いた。するとロズリーヌが窘めないことを良いことに、いつも手紙を覗き込むマルティーニが内容を確認して憤慨した。
「何ですコレ!? 一方的な! それに淡泊! 愛情の欠片もない!」
元より愛があっての婚約の申し込みではないことを分かっているロズアトリスとしては、大変読みやすい字で書かれた分かりやすい内容の良い手紙だと思うのだが。マルティーニはお気に召さなかったようだ。
とはいえ、提示された日時はいただけなかった。
「今日の予定を教えてくれるか、ピエール」
「本日、聖女ロズアトリス様は午前八時から午後四時まで大聖堂にて聖職。そしてロズリーヌ様は午後七時から夜会でございます」
聖女と悪女伯爵の二つの顔を持ったロズアトリス(あるいはロズリーヌ)は忙しい。
聖職者は大聖女や枢機卿の地位を与えられていなければ貴族の地位や職を兼業できるため、前伯爵夫婦が亡くなった際、ロズリーヌは爵位を継いだ。ロズリーヌがロズアトリスだと公言していないのは、前伯爵夫妻が幼かったロズリーヌを政治的利用から遠ざけるため隠していたところ、すっかり公言する機会を失ってしまったからである。
そうして陰謀蔓延る政治の世界から守ってもらったのに爵位を継いだのは孤児だった自分を引き取って育ててくれた二人への恩返しのつもりだったが、今となっては俗世を知るための隠れ蓑として重宝している。ちょうど今のように、忙しくて目が回りそうなときもあるのだが。
一分一秒も無駄にできないロズリーヌは早速引き出しから便箋を取り出し、素早く力強い字で手紙をしたためた。
【黄金の策士 ティモシー・ド・レピュセーズ殿下
大変申し訳ありませんが、本日の正午は都合が悪いです。深夜なら時間もありますが、日を改めていただけると幸いです。
ロズリーヌ・トリオール伯爵】
「事務的! 短い! せっかく初めてのお手紙交換なのに!」
端的だったティモシーに倣って事務的に必要事項だけ書いたところ、マルティーニはこれもお気に召さなかったようだ。
普段はあまり周りの評価を気にすることのないロズリーヌだが、マルティーニの最後の言葉にはそういえばと気づかされた。
(殿下と手紙のやり取りをするのは初めてだ……)
ロズアトリスとティモシーの間には、手紙でわざわざ話したいことなんて無かったように思う。打ち合わせをせずともティモシーはロズアトリスの動向を把握していたし、何も主張せずただただロズアトリスの思い通りにさせてくれた。
なんて奇妙な関係だったのだろうと、今更ながらロズアトリスは内心もやもやした。気もそぞろだったからか、書き上げた手紙を封筒に入れ、蝋封をする際に少し躊躇した。けれど結局書き直すことはせず、赤い蝋を垂らすといつもより強い力で蝋印を押しつけたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます