第21話 龍神の湖
多華子たちは茶屋で休憩をした後、再び龍の祠に向けてひたすら歩いていた。休憩前は多華子たちから距離を取っていた奈良岡だったが、気づけば一緒に歩いている。無口なことに変わりはないが、多華子たちと一緒にいることを受け入れているようだ。
「奈良岡は犬を飼ったことはあるのか?」
甲斐が尋ねると、奈良岡は首を振った。
「いいえ。猫なら飼っていますが」
「そうだったんですか? 初めて聞きました」
多華子は驚いていた。奈良岡とは世間話すらしたことがなかった。多華子が知っているのは、仕立屋の息子で秋津家とは深い付き合い、というくらいのものだ。
「母が猫好きなんですよ。世話はもっぱら母がしていますが」
そう語る奈良岡の目はどこか優しい。多華子は奈良岡の態度が少し和らいだことに気づき、ほっとした。
(やっぱりさっき茶屋で休んでよかった)
気づけば甲斐も、奈良岡への態度が幾分落ち着いているようである。月島も奈良岡に気さくに話しかけていた。奈良岡は少し面倒臭そうな顔をしながら、月島のお喋りを黙って聞いていた。
多華子たちは何度か休憩を取りながら、ひたすらに参道を進んだ。ようやく周囲の視界が開け、宿屋や茶店などが見えてきた。そしてその先に、大きな湖が現れた。
「これが、龍神の湖ですか……」
その湖の大きさは、多華子の想像を遥かに超えていた。まるで海のように広いが、確かに対岸に山が見えるのでこれは湖だと分かる。
「本当にここに、龍神の祠があるのか……?」
甲斐は辺りを見回した。ぐるりと見てもそれらしきものは見当たらない。
「そこの店の人に場所を聞いてみようか?」
月島は近くにある茶屋を指さした。
「そうだな、俺が聞いてくるよ」
言うが早いか、甲斐は茶屋に駆け出して行った。何やら湖を指さす店の女と何やら話した後、甲斐は戻って来た。
「祠は向こうの桟橋から渡し舟で行った先にあるらしい」
甲斐は湖の向こうを指しながら話した。
「そう言えば、湖の中に半島のように突き出している場所があって、祠はそこにあると聞いてます」
多華子の話に甲斐が頷いた。
「店の人もそんなことを言ってましたね。湖が大きすぎて、ここからじゃよく分かりませんね。とにかく桟橋に行ってみますか」
「そうですね。あ! あの人たちも桟橋に向かうんじゃないでしょうか?」
多華子の視界に、犬を連れた参拝客らしき男が桟橋の方へ歩いていくのが見えた。
「本当だ。俺達も向かいましょう」
甲斐の言葉に、月島と奈良岡もそれぞれ頷いた。
多華子たちは参拝客の後を追うように、桟橋までやってきた。そこには小さな渡し舟が二つあり、年老いた男が桟橋に椅子のようなものを置いて腰かけていた。
「お犬参りにきたのかい」
老人はイチを見ながら言った。
「はい」
緊張気味に多華子が返事をする。
「少し待ってな。今別の参拝客が祠へ向かったところだ。そいつが戻ってきたら、次はあんたの番だよ」
どうやら老人は祠への案内役のようだ。この為にこの老人は一日中湖にいるのだろうか、などと多華子は考えながらじっと順番を待つことにする。
「ここからどうすればいいんだ? 俺たちも行っていいのか?」
甲斐が尋ねると、老人は面倒臭そうに顔を上げた。
「渡し舟に乗れるのは、お犬様と『見届け人』だけさ。見た所、お嬢ちゃんが見届け人だな? お前たちはこのままここで待ってな」
「そうか……分かった。多華子さん、ここから先は多華子さん一人です。大丈夫ですか?」
甲斐は心配そうに多華子を見た。
「ええ、大丈夫です」
「僕の頼み、覚えていますよね?」
念を押すように甲斐は願い事の変更のことを言って来た。多華子はフッと微笑み、胸元から紺色の巾着袋を取り出す。
それは弘前で買った『こぎん刺し』の巾着袋だった。多華子は黙ってそれを甲斐に差し出した。
「多華子さん、これは……?」
「お犬参りが終わるまで、中は見ないでくださいね」
甲斐が巾着袋を触ると、中に硬い板状のものがある。
「これ、入れ替えた『願い事』ですか?」
「はい」
多華子の笑顔を見て、甲斐はホッと頬を緩めた。
「奈良岡さん」
急に多華子に話しかけられ、奈良岡は驚いた顔をした。
「……はい」
「私は、百合香の不幸を願ったことなどありません」
奈良岡は無言のままじっと多華子を見る。
「百合香の幸せは、百合香自身で掴むものです。私ごときに邪魔されるものではないはずです」
「……分かっています。僕は……百合香の言い分が間違っていると知っていて、それを正そうとしなかった。多華子さんに嫌な思いをさせていることを知っていても、僕は何もしなかったんです」
奈良岡が初めて自分の気持ちを話したことに、甲斐と月島は驚いて顔を見合わせた。多華子は表情を変えず、じっと奈良岡の話を聞いていた。
「奈良岡さんからその言葉を聞けて、良かったです」
多華子は穏やかな笑みを浮かべていた。
ようやく前の参拝客を乗せた渡し舟が戻って来た。乗っていたのはやはり多華子たちの前を歩いていた男で、柴犬を連れていた。
「お帰り」
老人が声をかけたが、男は憮然とした顔で何も答えない。心なしか柴犬の顔にも元気がないようだ。
「全く。とんだ無駄足だった」
男は誰に言うでもなく悪態をつくと、柴犬に「ほら、帰るぞ!」と言って帰って行った。
「先のお犬様はどうやら、龍神様に気に入られなかったようだねえ。さて、次はあんたの番だ。心の準備はできているかい?」
老人の意地の悪い瞳が多華子に突き刺さる。多華子はごくりと唾を飲み込み「……はい」と答えた。
「龍の祠は洞窟の中にある。洞窟の中に鳥居があるが、その先は人間が入っちゃならねえ。あんたは鳥居の前で待て。いいな?」
「分かりました」
多華子は真剣な表情で頷いた。老人は「よし」と頷くと多華子とイチに舟に乗るよう促した。
渡し舟には漕ぎ手の男が乗っていて、犬と『見届け人』と呼ばれる人間が一人だけ乗る。先に多華子が舟に乗り、イチに「おいで、イチ」と声をかける。イチが勢いよく舟に飛び乗ったのを見て、案内人の老人は目を細めた。
「ここが第一関門さ。怯えちまって舟に乗れない犬もいる」
舟に乗ったイチに、多華子は「よくできました」と微笑んで顔を撫でた。
多華子は陸を振り返り、声を上げた。
「みなさん、行ってきます」
多華子の声を合図に、漕ぎ手の男は舟をゆっくりと動かした。
「お気をつけて!」
甲斐は多華子の背中に向けて叫んだ。多華子は振り返り、笑顔を浮かべていた。月島と奈良岡もじっと多華子が遠ざかるのを見送っていた。
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