第20話 疑い

 多華子が宿に泊まっていた日、秋津百合香は父の守直と一緒に都築家を訪ねていた。華やかな花柄のワンピースを着ている百合香はいつにも増して美しく、都築子爵は百合香の美しさを褒めそやす。

「百合香嬢の美しさは、帝都一と言って差し支えないですな」

「もったいないお言葉を頂戴し、恐れ入ります」

 都築子爵と守直は、どちらも笑顔で上辺だけのやり取りを繰り返している。今日は結納に向けての話し合いと、両家の親睦を深めようという食事会でもある。

 今日の百合香は借りて来た猫のように大人しい。はにかんで恥ずかしそうにしながら、ちらりとテーブルの向かい側に座る、眉目秀麗な若者を見る。百合香の夫となる都築俊作は百合香を見て動揺することもなく堂々としていて、目が合った彼女に微笑んで見せた。

 思いがけず見つめ合う形となった百合香は、微笑みを返した。秋津家に婿入りが決まっているとはいえ、子爵家であり貴族院の議員を父に持つ男だ。おまけに女性ならば誰でも虜になる見た目である。百合香は理想の夫を前に、幸せを噛みしめていた。


「――さて、この先は家同士の話になる。後は若い者同士でゆっくり話でもしてはどうかね」

「おお、それはいいですな。百合香、そうさせてもらいなさい」

 都築子爵の提案に守直も調子を合わせる。

「分かりました。百合香さん、よろしければ別の部屋でレコードでも聴きませんか」

「ええ、是非」

 百合香は笑みを浮かべ頷いた。


 都築が百合香を案内した部屋には、ラッパ型の蓄音機が置いてある。蓄音機に向き合うように椅子が置かれていて、天井には吊り下げ型の電灯があり、室内は明るい。

「素敵なお部屋ですね」

 百合香は豪華な内装に感心しながら呟く。百合香の家もそれなりに贅を尽くした造りとは言え、華族である都築家の財力は、やはり秋津家とは比べるまでもない。

「これは全て父の趣味です。レコードも父のもので、あれこれ買い集めているようで。さあ、どうぞお掛けください」

「私の父も時々蓄音機をかけているようですわ。私の父と俊作様のお父様は趣味が合うようですわね」

 父の守直も蓄音機を持っているが、実は買っただけで殆ど使われていない。よって百合香も蓄音機には全く興味がないのだが、ここは彼に話を合わせておくべきだろう。


 都築はレコードを取り出し、蓄音機に乗せた。聞こえて来たのは流行歌で、女性歌手の艶やかな歌声が室内に流れる。

 百合香の隣に腰かけた都築は、百合香の横顔を見つめていた。笑みを浮かべながらなんとなく都築の視線を感じていた百合香だったが、あまりにも彼がずっと百合香を見ているので、とうとう我慢できなくなり都築を見た。

「何か話してくださいません?」

「申し訳ない。美しい方を前に、何を話そうかと悩んでいたもので」

 都築は余裕たっぷりの表情だ。誰に対しても臆することのない百合香だが、どうもこの男を前にすると調子が狂う。百合香は手持ち無沙汰に艶のある黒髪を撫でる。

「私に何か聞きたいことはありませんの?」

 百合香は余裕を見せるように、ゆっくりと都築に視線を送った。

「そうですね……なら、一つお伺いしたいことが」

「何です?」


「あなたの従姉……秋津多華子さんはお元気ですか?」

 都築の口から突然多華子の名前が出てきたことに、百合香は思わず動揺した。

「え……多華子姉様ですか? 勿論元気ですわ。なぜそんなことをお聞きになるの?」

「姉妹同然で育ったとお聞きしたので、そういう方なら、僕も一度ご挨拶を申し上げたいと思ったのです。ですが……あなたのお父様に伺ったところ、多華子さんはご病気で外に出られないとか。まだ病は長引いているのですか?」

 百合香はしまったと思ったがもう遅い。多華子は元気だと先に話してしまった手前今更嘘は言えないが、父は多華子のことを病気だと話している。不自然だがここは父の話に合わせて嘘を重ねるしかない。

「じ、実は……多華子姉様は重い病気ですの。長患いしておりまして、外には話さないようにしているのですが……」

 そう話す百合香は都築から目を逸らしている。都築は百合香の話をじっと聞いた後、フッと微笑んだ。

「そうでしたか。では今度、秋津家にお見舞いに伺わせてもらってもよろしいですか?」

「お見舞いだなんて! 多華子姉様は大丈夫ですわ。それに、あの人は大変な人嫌いで、知らない方とお会いするのを嫌がりますの。俊作様のお心だけいただいておきますわ」

 二人に沈黙が流れ、その間を縫うように女性歌手の歌声が通り抜けた。


「……分かりました。そういうことでしたら、無理を言ってはいけませんね。病が長引いているようでしたら、私がいい医者を紹介して差し上げましょう」

「まあ、嬉しいですわ! きっと多華子姉様も喜ぶと思います。俊作様はお優しい方ですのね」

「とんでもない。百合香さんの従姉なら、今後僕が秋津家に入ってから長いお付き合いになるでしょうし、当然のことですよ」

 都築は微笑み、百合香はその笑顔にホッと胸を撫で下ろした。二人はその後、他愛ない話をしながら時間を潰し、ようやく話し合いが終わった守直と百合香は都築家を後にした。


 守直と百合香が帰った後、息子の俊作は父と話す為に彼の書斎を訪れていた。

「結納の日取りは決まりましたか?」

「目途は立った。まだ色々と調整が必要だが」

「父上、結納のことなんですが……日取りを正式に決めるのを、少し待ってもらうわけにはいかないでしょうか?」

 唐突な息子の提案に、父は眉をひそめた。

「どうしたんだ。あの娘が気に入らないか? それとも秋津家に婿入りして平民になるのが急に嫌になったか?」

「そのことなら既に納得していますし、今更どうこう言うつもりはありません。実は……僕の所に新聞記者が来まして、僕に妙なことを言って来たのです」

「新聞記者だと? どうせくだらない醜聞でも探っているのだろう。放っておけばいい」


「僕もそう思ったんですが、少し引っかかりまして。秋津家に、守直氏の姪が住んでいるのはご存知ですよね?」

「ああ。守直氏の兄が急死し、姪を引き取ったと聞いている」

「その兄である守一氏の死に、弟の守直氏が関わっていると記者が僕に話したのです」

「何だと?」

 息子の訴えを面倒臭そうに聞いていた父だったが、死という言葉を聞き、さすがに表情を変えた。

「守一氏は船の事故で亡くなったとされていますが、その事故が仕組まれたものかもしれないと記者が言うのです。一度、守一氏の娘である秋津多華子に会って話を聞きたいところですが……守直氏も百合香さんも揃って『多華子は病気だ』と言い彼女に僕を近づけさせません。怪しいと思いませんか? 父上」

「……だが、当時も警察が調べた上で事故とされたのだろう?」

「記者もそう話しています。ですがある筋から兄の死に疑いがあるとの情報を聞いたそうで……」

「その記者はどこまで信用できる? 妙な噂を掴まされているだけじゃないのか」

 父は疑いの表情を浮かべている。

「僕もそれを疑っていますが、否定するにもきちんと調べた方がいいと思いまして」

「ふむ……私からも警視庁の知り合いに尋ねてみよう。心配するな、まだ結納の日取りは正式に決まったわけではない。お前は心配するな」

「お願いします、父上」

 俊作は頭を下げ、父の書斎を後にした。

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