第14話 月島家

 イチは家の縁側に置かれた餌と水の前で、べたりと腹を地面につけて寝そべっている。さすがにお腹がいっぱいのようで餌には手をつけておらず、今にも寝そうな顔をしていた。縁側から庭の柿の木を眺めながら、客間の大きな座卓に三人が座っている。座卓の上にはお茶と切り分けられたリンゴと、多華子たちが買った大福が置かれていた。

「家の中も素敵ですね」

「そうですねえ、ほら、立派な欄間らんまですよ。見事なもんだなあ」

 甲斐が指差す先には、透かし彫りの松の木が見事な欄間があった。

「へえ……本当だ。気づかなかったな」

 月島は欄間をまじまじと見て呟いた。

「自分の家なのに、気づかないなんてあるのか?」

「本当だね。僕は自分の家のことをちっとも見ていなかったみたいだ」

 苦笑いしながら月島はリンゴを一切れ食べた。


「月島さん、お父様は今日お家にいらっしゃるんですか?」

 多華子が尋ねると、月島は笑顔で首を振った。

「親父は家にいませんよ。今頃仕事中じゃないですか」

「お父様はなんの仕事を?」

「尋常小学校の校長をしてます。戻るのは早くても昼過ぎじゃないかな」

「校長先生だったのか、お前の親父さん」

 甲斐が驚いて月島に聞き返す。

「学校にいらっしゃるなら、お父様にお会いするのは難しそうですね」

 残念そうに言う多華子だったが、月島は反対になんだか嬉しそうだ。月島が実家に帰るのを嫌がっていたわりには、あっさりと家に戻ることに同意したのは、父親がいないことを知っていたからなのだろう。


「お待たせしました」

 しばらく待っているとすらりとふすまが開き、月島の母がようやく来た。どっさりと彼の着替えを抱え、客間に入る。

「いえいえ、すっかり寛いでしまってましたよ……」

 笑いながら母親に答える甲斐の顔が驚きで固まる。月島の母の後ろから、中年の男が現れたのだ。


「……父さん」

 月島の顔がみるみる険しくなる。月島の父は無言で息子を睨みつけていて、途端に凍るその場の空気に多華子はオロオロしながら甲斐と視線を合わせた。


「広太郎の父です。お二人は帝都からお越しになったとか。なんのお構いもできませんが、ゆっくりしてってください」

 月島の父は細身で、顔に深い皺が刻まれ口を真一文字に結び、どこか近寄りがたい雰囲気があった。

「突然お邪魔して申し訳ありません。日本橋署の甲斐聡一と申します」

「秋津多華子と申します」

 甲斐と多華子は慌てて父親に挨拶をする。

「父さん……学校じゃなかったの?」

 険しい顔のまま、月島が父に尋ねる。

「今日は休校日だ」

 不機嫌そうに答え、父親は座卓の前にどかっとあぐらをかいた。しんとなる空気の中、甲斐がその場をなごませるように口を開く。


「お父さんは学校の校長をされていると伺いましたが」

「ええ。尋常小学校で教えています」

「へえ、どおりで賢い息子さんだと思いましたよ!」

「賢い?」

 じろりと父親に睨まれ、甲斐は気まずそうに目を逸らした。助け舟を出すように、月島の母がお茶を父親の前に置く。

「広太郎、とりあえず幸次郎こうじろうのものを適当に持ってきたから、どれを持って行くか選びなさい」

「あ、ああ……そうだね」

 月島は立ち上がり、部屋の隅に置かれていた弟の服を手に取る。


「しばらく音沙汰がないと思っていたら突然帰ってきて……幸次郎の服を持って帰るか。お前は弟に迷惑をかけてばかりだ」

 月島の手が止まる。多華子は心配そうに月島の後ろ姿を見ていた。

「お父さん、お客さんの前で何もそんな言い方……」

「お前は黙ってろ」

 ぴしゃりと父親に言われ、母親は黙り込んでしまった。


「……悪かったよ。服は後で送るからさ」

 父親に背を向けたまま、月島は静かに言った。

「そういうことを言ってるんじゃない!」

 突然父親は怒鳴り、座卓を力任せに叩いた。ガチャンと音がして湯呑みが倒れ、こぼれたお茶が座卓に広がる。座卓を叩く音と声の大きさに、多華子はビクッと肩を揺らした。怯えた顔の多華子を見た甲斐はさっと片膝を立て、今にも立ち上がりそうな恰好になった。


「お父さん。失礼ですがこの場で月島を叱るのは勘弁してやってくれませんか」

「帝都のお巡りが、うちの事情に口を出さないでもらえますかね」

 甲斐と月島の父が睨み合った。二人とも一歩も引かず、目を逸らさない。

「確かに管轄外ですけどね、だからと言って揉め事を黙って見ているようなお巡りじゃないんですよ、俺は」

「こんなの揉め事のうちにも入りませんよ。お巡りさんはうちの息子がどんな人間か、ご存知ないでしょう? いい加減で、親の言うことはちっとも聞きやしない。長男だと言うのに家も継がず、小説だかなんだか知りませんが、くだらんもんばっかり書いて。あげくに『帝都で売れっ子作家になる』なんて言って家を出て行ったんですよ」

「父さん、やめてくれよ」

 月島は怒りを抑えるように、俯きながら口を挟んだ。

「何だ? この人たちに知られるのが恥ずかしいか。金にもならん小説を書いて好き勝手に暮らして、こうして着るものが無くなったと言って弟の服をせびりに来る。お前はそういう人間なんだ。いつだって自分のことばっかりで、誰かに迷惑をかけても平然として。母さんや幸次郎がどれだけ心配していたか、分かってるのか!」


 月島は黙り込んでしまった。震える手で服を抱えて立ち上がる。

「もう帰ろう、甲斐さん、多華子さん」

「ああ、さっさとその服を持って出て行け! 服は返さなくていい」

 父親は乱暴に言い放った。その横で母親は無言のまま、座卓にこぼれたお茶を布巾で拭いていた。


「あの……申し訳ございません」

 突然、黙っていた多華子が父親に向かって頭を下げた。

「多華子さん?」

 甲斐と月島が驚いて多華子を見る。

「ここへ来たのは、私が月島さんに無理を言ったからです。月島さんはご実家を頼るつもりなどありませんでした。実は月島さんを青森までつき合わせたのも、私の勝手な考えなのです。身支度をする間もなく、一緒に汽車に乗ることになってしまったので服が必要でした。ですから、これは私がお願いしたことなのです」

 父親は多華子が語る姿をじっと見ていた。

「月島さんは、自分勝手な方ではありません。むしろ私の我がままにつき合わせてしまい、申し訳ないと思っています。ですからどうか、月島さんを笑顔で見送っていただけませんか。次にいつ会えるか分からないのですから」

 多華子は畳に指をつき、深々と頭を下げた。


 甲斐は多華子が頭を下げる姿を見て慌てて多華子の体を起こす。

「多華子さん、あなたが頭を下げる必要はありませんよ!」

「そうだよ、多華子さん。僕の為にそんな……」

 月島も急いで多華子に駆け寄る。

「頭を下げるくらいで私の名誉は傷つきません」

 顔を上げた多華子の表情は厳しく、その目はじっと月島の父に向いていた。さすがにばつが悪くなったのか、月島の父は落ち着きなく体を揺らし、もうとっくに空になった湯呑みに手をかけたりしていた。


「お父さん、今日はこのくらいにしてやってください。気分よく送り出してあげましょうよ」

 月島の母が囁くように父親に語りかけると、父親はしぶしぶ、と言った感じで頷いた。

「……まあ、今日のところは仕方ない。だがわしはお前を許したわけじゃないぞ。それを忘れるなよ、広太郎」

「分かったよ、父さん」

 月島も父親そっくりの苦々しい顔で頷いた。




 多華子たちとイチの一行は、月島家を出て歩いていた。

 月島は実家で借りた上着をはおり、暖かそうだ。背中に他の着替えを入れた風呂敷を背負い、手には多華子の鞄を持っている。

 イチは休んでいたのですっかり元気になり、チャカチャカと歩いている。イチを見ながら笑みを浮かべた後、多華子は月島に話しかけた。

「……すみませんでした、月島さん。私がご実家へお邪魔しようなどと言ったせいで、嫌な思いをさせてしまって……」

 申し訳なさそうに話す多華子に、月島は笑顔で首を振った。

「いや、むしろ僕の方こそ嫌な思いさせちゃってすみません。まさか親父が家にいるとは思わなかったもんですから」

「まあ、取っ組み合いにならなかっただけでも上出来じゃねえか? そうなったら止めるつもりだったけど」

 先頭を歩いている甲斐は笑いながら振り返る。

「いつもならとっくに殴られてるよ……あれでも親父は気を使ったと思うよ。それにしても、親父はちっとも変わってなかったなあ」

「いいじゃねえか。変わってないってことは元気な証だろ」

「まあ、いいように言えばそうだけどさ」

「また喧嘩しに帰ればいいよ。親父さんが元気なうちにさ」

 月島に冗談を言った甲斐は、月島が神妙な顔をしていることに気づいた。


「……僕は親父の言う通りの男だよ。小説を書いている僕のことをくだらないといつも叱ってくる親父が疎ましくて、家に寄りつかずにフラフラしていたんだ。家のことは全て弟に丸投げして、僕は帝都に出たんだ」

 月島はポツリ、ポツリと自分の身の上話をした。月島家の長男として、当然のように実家を継ぐと思われていた月島は、小説家になることを夢見た。先に帝都に出た友人を追うように、月島は帝都へ行くことを決めた。

 当然の話だが、両親は反対した。特に父親の怒りはすさまじく、勘当同然で家を追い出された。それ以来月島は一度も青森に帰っていなかった。居場所を知らせる為に母親と手紙のやり取りを何度かしていたが、住むところを点々としていた月島はやがて手紙すら書かなくなった。


 帝都で知り合った女たちはそんな月島の身の上話に同情し、彼に身も心も捧げた。月島は女に溺れ、先に売れていく仲間を妬み、どんどん自堕落な人間になっていった。

「親父が僕を怒るのは当然なんだ。僕は君たちに庇ってもらう価値のある男じゃない。さっき多華子さんは僕のことを『自分勝手な人じゃない』と言ったけど、僕は自分勝手なんだよ。常に誰かに甘え、助けてもらうことばかり考えてるんだ」

「そんなこと……」

 多華子は戸惑いながら呟き、甲斐と目を合わせる。


「どうして僕があの時、上野駅で多華子さんの財布を盗んだと思う? 僕は甲斐さんが多華子さんと一緒にいるのを見かけたんだ。甲斐さんと一緒にいる女から財布を盗めば、甲斐さんは必ず僕を捕まえる。そうすれば、また甲斐さんは僕を助けてくれるに違いないと、そう思ったんだ……僕はこういう男なんだよ。自分のことしか考えてない、浅ましい男なんだ……」

 いつの間にか月島の声が震えていた。


「月島」

 甲斐の低い声が響き、月島は体をびくりとさせた。


「お前は馬鹿か。助けて欲しいなら素直にそう言えよ、変な小細工してないで」

「……ごめん」

「それと、色々あったかもしれねえけどさ、十年帝都で生きてこられたんだろ? 普通ならとっくに逃げ帰ってるさ。お前は根性あるよ」

 甲斐の言葉に驚いた月島は、目を丸くした。

「甲斐さんにそんなことを言ってもらえるとは思わなかったな」

「だからお前は本気で働けよ。いいか、働けってのは小説を書けってことだ。親父さんにくだらないもん書いてるって言わせないようにな! 食い扶持なら俺がまた仕事を紹介してやるから。次は逃げるなよ?」

「ありがとう、甲斐さん……」

「いいか、勘違いすんなよ? お前は既に背水の陣なんだ。失敗したら大人しくあの頑固親父に頭を下げて実家に戻れ。それが嫌なら気合を入れろってことだよ」

「分かったよ」

 月島は甲斐の迫力ある言葉にごくりと息を飲み、何度も頷いた。


「さ! 話も終わったことだしさっさと移動しますか。多華子さん、この後は宿屋を目指すんでしたよね」

 気を取り直した甲斐は笑顔で多華子に尋ねた。

「え、ええ……そうですね。龍の祠の参道近くにいくつか宿屋があると聞いてますから、今日はそこに泊まろうかと思ってます。その辺りには温泉も湧いているそうですから、温泉にも入れるかもしれません」

「温泉ですか、楽しみだなあ! 俺もさすがに疲れてきましたよ。ゆっくり風呂に入って、畳の上で寝たい気分です」

 宿と聞いて気が緩んだのか、甲斐は欠伸をかみ殺した。

「本当ですね。それじゃあ向かいましょうか」

「温泉かあ。いよいよ本格的に旅をしている気分になってきたなあ」

 月島と多華子は微笑みあい、三人と一匹は宿に向かって出発した。

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