第9話「存在を買い取る男」
ノエルは、何度目かの目覚めに、視界を覆う血の海を見た。
「……また、か。」
男の死体が目の前に広がっている。顔には焦げ跡があり、首元からはまだ黒煙が立っていた。石畳には焼け焦げた痕が残り、空気は鉄と煙の匂いで満たされている。
だが、ノエルには何も思い出せなかった。
名前も、街のことも、目の前の男の顔すらも。唯一覚えているのは“昨日に戻れる力”を自分が持っていること。
その力は、一日に一度だけ使える。代償として、すべての記憶が消える。
ノエルは、死体に近づいた。男の手が何かを握っているのに気づく。無理やり指をこじ開けると、そこには小さな紙切れがあった。
そこにはこう書かれていた。
『この男を殺すな。お前自身が消える。
過去の俺より』
「俺の字、か?」
震える筆跡。だが確かに、これは自分の手によるものだ。ノエルは紙を見つめながら、息を呑む。
そのとき、背後から声がした。
「また、殺したのね」
ノエルが振り向くと、黒ローブの女が立っていた。整った顔立ち、冷たく感情の読めない瞳。彼女は、まるで何かの記録者のように、ノエルを無言で見つめていた。
「君が彼を殺すのは……これで七度目」
「七度目……?」
「そう。君は彼を殺し、後悔し、過去に戻り、また記憶を失って同じ過ちを繰り返した。私はそのたびに、状況を再現した。そして、紙切れを託した」
ノエルは、自分の頭を押さえる。
「何で、そんなことを……?」
「私は“記憶の仲介人”。君のような能力者が“記憶を売った”とき、その記憶を保管し、売買する。君が記憶を手放すたびに、誰かがそれを買い取っていった」
ノエルは愕然とした。
「俺の記憶を……誰かが?」
「ええ。君が自分の“存在”そのものを代償にしてでも、過去をやり直そうとしたから。
君は彼“アラン”を殺すことで何かを守った。でもその記憶すら、もう君には残っていない」
その名を聞いた瞬間、ノエルの心に、かすかな揺らぎが生まれた。
「……アラン?」
女は静かに頷く。
「記憶は失っても、存在は完全には消えない。彼の名前を聞いて胸が疼くのは、君がかつて“誰かを選んだ”証」
ノエルの視界が揺れる。熱が、胸にこみあげる。
思い出せない。でも確かに、“その名前”は特別だった。
「君は彼から、“存在”を譲られたのよ。君を守るために、彼は自らの記憶と名前を君に与えた。そして君は、その記憶を売った」
「そんな……俺が、売った?」
女は空中に指を走らせると、光でできた契約書が浮かび上がった。
『記憶売却契約書』
対象:第六記憶群(アラン=セグナとの関係)
代価:過去への帰還権(6回分)
署名者:ノエル・???
「君は選んだの。過去に戻ることを。そして、彼との記憶を代価にした」
ノエルの胸に、どうしようもない痛みが走る。
自分は、何をしてきたのか。
「戻れるのか? 記憶を、取り戻せるのか?」
「代償が必要になるわ。君に残された最後の“存在”今の名前、それすら手放す覚悟があるなら」
ノエルは、迷わず頷いた。
「名前も思い出もなくて生きるより、誰かを踏みにじって生きてたほうがよっぽど苦しい」
「ふふ……君は何度目でも、同じ結論に辿り着くのね」
女は、静かに手をかざした。契約の光がノエルを包み込む。
「名を失えば、世界からの認識も消えるわ。でも、一つだけ残るものがある」
「何だ?」
「“誰かに想われた記憶”よ。それは、売っても消えない。君が彼を想い、彼が君を想ったという事実だけは、どんな契約にも奪えない」
ノエルは、最後にもう一度、焼け焦げた男の傍にしゃがみこむ。
「ごめんな。俺は何度も、お前を裏切ってきた」
沈黙の中で、彼は目を閉じる。
白い光がすべてを包み、ノエルの存在を新たに塗り替えていく。
自分の名前も、過去も、もう何も残らない。
でも、それでも。
想いだけは、確かに胸に残っていた。
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