第8話「“昨日の俺”が震えながら残した言葉」
夕闇が落ち始めた街の路地裏。ノエルは、まだ湿った血の匂いが残るその場所に立っていた。
風が吹き抜けるたび、地面に散った紙片がカサリと鳴る。その中に、ひときわ黒く焦げた一枚があった。木箱の影にひらりと引っかかり、まるで「見つけてくれ」とでも言うように揺れている。
ノエルはそれを拾い上げた。煤で縁が黒く染まり、ところどころ焦げ目が走っている。文字の多くはにじんで読めなくなっていたが、かろうじて、いくつかの言葉が残っていた。
《お前を見た。逃げろ。俺は、殺される》
「……俺の、字……?」
震えながら呟く。筆跡に見覚えがあった。急いで書いたような乱れた文字。焦りと恐怖に満ちているのに、どこかに確かな「意志」が込められていた。
その瞬間「前の“君”が残した言葉だ」
背後から、凛とした声が落ちてきた。
ノエルが振り返ると、そこには黒ローブの女が立っていた。いつの間にか現れたその姿は、夜の闇と見紛うほど静かで、冷たい。
「君はその紙を拾い、警戒して逃げようとした。けれど殺された。あれが、五度目の“昨日”だ」
ノエルは息を呑んだ。
「そんなことが、分かるのか……?」
「当然。私は“昨日の君”を見てきた。いや、それだけじゃない。君がどんなに足掻こうと、“死に方”まで繰り返していることも」
「……逃げても死ぬ。戦っても死ぬ。……じゃあ、どうすればいい?」
問いかける声は、皮肉でも怒りでもなく、ただ乾いていた。けれど女は冷ややかに告げた。
「君はまだ、“昨日の自分”に勝てていない。常に、過去に負け続けている」
その言葉は刃だった。突き刺さり、ノエルの心に鈍く響いた。
「……じゃあ、どうすれば“昨日”に勝てる? 未来は、どうすれば変えられる?」
女は少しだけ目を伏せた。その瞳の奥に、かすかな痛みのようなものが揺れた。
「答えを他人に求めている限り、君は変われない」
ノエルは焦げた紙を見つめた。自分自身が、恐怖に震えながらも残した言葉。
“俺は、殺される”。
けれど、それだけじゃなかった。裏面に、うっすらと別の走り書きがあることに気づいた。
指でそっとなぞると、炭のような筆跡が浮かび上がる。
《それでも——信じろ》
「……!」
ノエルは目を見開いた。その一言は、まるで今の自分に向けられた“未来からの言葉”のようだった。
女の目がわずかに揺れた。
「思い出したか?」
「いや、思い出せてない……でも、確かに、これは俺が残した“希望”だ」
ノエルは紙を握りしめたまま、ポケットから炭の欠片を取り出す。焦げ跡の残る壁に向かって、ゆっくりと書き始める。
《昨日の俺が俺を信じた。だから今日の俺は、明日の俺に賭ける》
「……ようやく少し、面白くなってきたわね」
女が呟いた。そこには、初めてわずかな感情があった。ノエルを試すような目ではなく、何かを託すような眼差し。
「一つだけ、ヒントをやるわ。次に死ぬとき、君は“ある名前”を口にする。それが、この街の最大の謎を開く鍵になる」
「……名前?」
女はそれ以上語らなかった。影の中へと溶けるように、すっと姿を消す。
ノエルはもう一度、焼け焦げた紙を見つめた。
“俺は、殺される”
“逃げろ”
“信じろ”
記憶を失っても、想いは残せる。信念は、書き記せる。そう思った。
彼は再び歩き出す。瓦礫の間をすり抜け、血の匂いが薄れていく方へ。
昨日を超えるために。
誰でもない、自分自身の意思で。
足元に、昨日の自分が落とした黒いローブの切れ端が転がっていた。拾い上げた瞬間、指先に残る感触にノエルは目を見開いた。
この素材はあの女が纏っていたものと同じ。
「……やっぱり、昨日の俺は、彼女と会ってたんだな」
風が吹き抜ける。紙片が宙に舞い、まるで“昨日”が言葉を残していったようだった。
ノエルは、その全てを胸に抱えて進んだ。
終わりなきループの中で、たった一歩でも前に進むために。
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