第9話
じっとりと失望を隠さず見下ろした。眼下では天使が身体を小さくしてしょんぼり俯いている。その手にあるのは数枚のカード、いずれも彼の作品らしい。
夜も更け始める頃。テキトーな場所に停めた車内でセスと向き直り、俺は彼を問い詰めていた。
「お前いつの間にこんなカード集めてたわけ? おかしくない? 増えすぎじゃない? まだ寮出てから二日しか経ってないんだけど」
「ついにバレた……」
「バレたじゃないんだよ。おかしいでしょ。わかってる? お前見つかったら殺されんだよ? 特に今は、俺の捜索も始まってるかもしれなくて、いつもより危険なのに」
セスは心底反省していますとでも言いたげな顔で俺を見上げている。
「どうしてそんなに急いでんの。そりゃこの先どうなるかはわからないけど、リスクを冒してまでカード集めしなくても良いじゃん。このカードがセスにとって大事な作品なのはわかってるけど、でも、セスの命のほうが……」
そっと屈み、セスの手からカードを一枚抜き取る。描かれているのは、人魚、だろうか。青にも紫にも見える不思議な色の海を背に微笑みを浮かべる人魚。美しい絵だ。
「それは、人間界の、人魚という生き物の話を聞いた時に思い浮かんだもので……どんな風貌をしているのか資料を漁ったりもして、とても大切に描いたものなんです」
「大事そうに持ってるそのほかのカードも? わかるけど、でも俺の気持ちだってわかるでしょ」
セスは俺の顔を見上げたまま、こくりと頷く。二百歳の天使様がまるで子供だ。
「わかります。俺は、コウキを守らなくちゃいけないし、でも……でも、今集めたいんです。我儘を言ってすみません」
「いやまあそんなに強く怒る気もないけどさ。……まあいいや、セスの好きにしたらいいよ。俺も協力はするし。地獄に堕ちるときは一緒ってね。軍資金はまだあんの?」
「コウキ……色々、すみません。お金については大丈夫です。今まで以上に見つからないように最大限注意を払って行動するようにもします」
セスの言葉に頷きを返し外に目を向けると、すっかり暗くなっていた。眠気も襲ってきているし、今日はもう休んだ方がいいだろう。
「じゃ、また明日、行くとこ決めようか」
そう言ってセスに手を振り、ソファ兼ベッドに寝転がる。明日はどこへ行こうか。買い出しをして、もう数日ここらを見て回ったら俺の行きたいところに行こう。買い出しが終わったら一日ゲームをしてもいいな。最高だ。学校に行っている時間がどれほど無駄だったかがよくわかる。とりとめもないことを考えているとすぐに睡魔がやってきた。セスの気配はしない。彼はいつも運転席の方で眠っているようだから、すでにそちらに行ったのだろう。
気が付くと、周囲が明るくなっていた。朝がきたらしい。寝転がったままカーテンを少しだけどけると、外は暖かそうな晴れ模様。蝶が飛んでいるのが見えた。今日もいい日になりそうだ。
ふと伸びをすると、スマホに手が触れた。手で弾いてしまったため、サイドテーブルから落ちそうになっている。危ない、こんなところに置いていたのか。充電してないや。そっと手に取ると、突然音声が流れ始めてきた。淡々と話す人の声、ニュースアプリを開いたままスリープモードになっていたようだ。閉じようと指を向けたその瞬間。表示されていた文字列を頭で理解することができなくて、数秒固まる。見覚えのある名前、顔、そして、これがトップニュースとして表示されているという事実。
嘘。だって、この名前は——
コウキも寝静まった夜はとても静かで、世界に一人だけになったような気分になる。一番隠したかったことは、まだ話せていない。ガロウはきっと俺を見つける。それまでに作品を集めきって、コウキに俺のことを話して、お別れをしなければならない。
服の中に仕込んでいた軍資金で残りのカードは集めきれそうだった。作者としては複雑だが、俺の絵はこの世界ではあまり評価されていないらしい。他のキラキラした作品たちのほうが、何倍も高い値段で売られていた。
コウキと出会ってから、力づくで奪い取るような真似はやめた。コウキの隣に立つ者として少しでも誠実であれるようにと。前科がありすぎてそんなもの意味がないと笑われそうだが、でも、ここで盗みを働いたら、きっとコウキと一緒にはいられなくなる。俺だってやり直したいとそう思っているのだ。あの日からぐにゃぐにゃに捻じ曲げられた俺の天使生は、俺一人の力では真っ直ぐに正せそうにもないけれど。
微睡みながら、思考は先ほどの会話に戻っていく。コウキはこんな俺を心配してくれる本当に、本当に優しい人で、だからこそ俺は彼を守らなければならない。絶対に。一緒に地獄に落ちたいと、俺だってそう思っているけれど、きっと地獄に落ちるのは俺だけだ。一緒に地獄に落ちることができたとて、きっと俺はコウキよりも深く苦しい地獄に落とされるだろう。
眠れなくて目を開いた。見慣れつつある運転席に月の光が落ち、かすかに俺の足元を照らしている。物音は一つも聞こえない。そっと、床に置いていた鞄を引き寄せる。中には、今まで取り返したカードが詰まっていた。
「昨日取り返したのが三枚で、……あれ」
一枚ずつ数えて、そこで気が付いた。あと一枚だ。あと一枚で、俺の作品が全て俺の手に戻ってくる。そうか、もうあと一枚だったのか。ならばお金の心配は完全になくなる、良かった。バタバタしていたから枚数を把握できていなかった。
「あと一枚、なんだ、どれだ。天使はある、人魚もある、……あ」
記憶を手繰り寄せる。俺、コウキの部屋を出るとき、カード持ってきたっけ。持ってきてない。じゃあ最後の一枚は、あの騎士の絵は、コウキの部屋に置きっぱなし!
「最悪だ……最悪すぎる……」
せっかくいい感じに学園から離れられているのにまた戻ろうなんて言ったらコウキは怒るだろう。それにあそこを出てからもう二日経っている。そろそろ学園も怪しんで調査を開始する頃合いだろう。どう考えても危険すぎる。戻らない方がいい。
「仕方ない。諦めましょう。それ以外が集まったのだから、もうそれでいいですし」
口惜しいが捕まるよりは断然マシだ。諦めてカードを鞄に入れ、いつものように椅子の陰に押し込む。ほ、と息を吐いた。作品が戻った。俺の目的は達成された。ならばやるべきことは一つ、コウキと話をすること。俺が最低最悪の天使であることを明かし、コウキと離れる運命の日を決める時が来た。
そっと丸くなって目を閉じ、翼で体を覆う。ふいにずきり、と翼の付け根が痛んだ。古傷が痛むことは何度もあったが、コウキに出会ってからは毎日だ。一体どうしてしまったのだろうと考えているうちに、思考は過去に戻っていく。十年前、この傷がつけられてすぐは今のように毎日苦しんでいた。でもあの頃はもっと痛みが強くて……
四九九五年、七月。
飛んできた炎を間一髪避け、人混みに紛れるように大通りを走る。思っていたよりも人間の数が少なくて舌打ちをした。驚愕の表情でこちらを振り返る人間を追い越し全速力で飛び上がり、そのまま空を突っ切る。光線のように速く、もっと速く。じゃないとアイツはどこまででも追いかけてくる。
息を大きく吸い、そのまま天高く、空へ。久しぶりの空を飛ぶ感覚に数秒間だけ酔いしれる。体を撫でる風を惜しく思いながら目の前に天界へのゲートを出現させ、躊躇いなく突っ込んだ。数秒体の中を風が通り抜ける感覚がした後、視界にいつもの路地裏が飛び込んできた。下界からこちらへ戻って来た時に使う、定番の路地裏。天使が寄り付かないような暗く活気のない場所だから好んでいたのだが、六十八回目の脱獄の時にガロウにバレてしまっている。
「今回も油断ができないですね……どうしましょう。アトリエに戻って作品を安全な場所に隠したいですけど、でもさすがに張られているでしょうし……」
一旦、看守たちの行動が大人しくなるまで身を隠そう。そう考え、手早く変装を済ませる。髪は魔法をかけてロングヘアのストレート、色はピンク。瞳の色は赤。服装は、中流階級くらいでいいかな。少しだけ装飾の凝った白色の上着を羽織り、靴を上等なブーツに変えればいいだろう。色は、最近流行りらしい黒をアクセントに入れて。今回のは厳重だ、目の色を変えるアイテムも手に入れたし。早々バレやしないだろう。
そっと路地裏から抜け出し、何食わぬ顔で道を歩く。姿勢はわざと猫背に、けれど無駄にキョロキョロ視線は向けず、堂々と。下界はなぜか大通りに人間が少なかったが、こちらはどうだろう。慣れた道を通り、天界のメインストリートの一つに出たところで——大きな歓声に耳が破裂するかと思った。
「天界と人間界の和平への一歩!」「今こそ、戦争の終結を!!」
「お互いに争うのは終わりにする、そのための第一歩として——!」
「あの人間が、例の銃を開発したっていう?」
「そうそう。何度も改良してまで私たちを殺そうと頑張ってたらしいけど、ついに無駄だってことがわかったのかな。戦争を終わらせたいんだって」
「にしても単身で使者としてこっちに来るのはなかなか肝が座ってるというか」
周囲から聞こえる音、声を頼りに状況を判断する。メインストリートを覆うかのように集まった天使達。どこからか大きな音で音楽が鳴り響き、雰囲気に浮かれた者たちが空に花火の魔法を放っている。何だ、今日は祭りか何かの日だったか? 四九九五年、日付は……今は何月何日だろうか。しばらくカレンダーを見ていないだめ全くわからない。
メインストリートの一番奥、そびえたつ王城の前には何人もの警備隊。よく目を凝らすと、王城の入口に続く白い階段に、翼のない背中を晒して歩く生き物がいるのが見えた。——あれが、人間。
「戦争を、終わらせるために来た、人間……」
これだけ長く続いた戦争だ、たった数日では和平を結ぶことなどできないだろう。それでも、人間が、天界を支配しようと血眼になり俺たち天使を襲った人間が、こうして和解のために天界にまでやってくるなんて。殺されてもおかしくないのに。
周囲は歴史の転換点を思う存分味わっているようで、高揚感が伝わってくる。しかし俺の体は冷えていくばかりで、居心地の悪さを覚えその場を後にすることにした。この場にいた方が見つかりにくくなるとはわかっているけれど、耐えられそうにない。俺は脱獄囚としてあらゆる人たちに嫌われ、今もいつ捕まるかわからない状況にあるのに。明日が保証されている人々への羨望が胸の内から溢れてしまいそうになる。
メインストリートを離れると人影は一気に数を減らした。いつもだったらもうすぐガロウと看守がやってきて追いかけっこが再スタートするのだが、今日は変装もばっちりしているし、何よりこの大イベント。ガロウは真面目だから、この騒ぎの中俺を捕まえるために派手に追いかけては来ないのではないだろうか。そう考え、危険を承知でアトリエに向かうことにした。
天界の隅にひっそりと存在する俺の居場所。壊れかけた建物と不法に捨てられたごみを意に介すことなく先へ進む。この倒れた壁は、いつだったかの脱獄で俺が看守を攻撃した時に一緒に破壊されたものだろう。あの時は両腕を消し飛ばされてなりふり構っていられなかった。いつもはアトリエの近くであんなに暴れたりしないのに。アトリエには、取り返した作品を置いておく命よりも大切な保管庫があるのだから。
草と花が手入れもされずに生えっぱなしになっている道なき道を進むと、すぐにアトリエが見えてきた。服に隠した作品をそっと撫で、物陰で耳を澄ませる。天使の気配はないがのこのこ近づくわけにもいかない。アトリエは厳重に鍵がかけられ、魔法のバリアが何重にも張られており罠もいくつも仕掛けられている。ここからが本番だ。
気配がないことを再確認し入口に立つ。鍵は炎で破壊、バリアも壊してしまおう。その場でバリアに向けて手のひらを翳し、右腕に力を込める。攻撃魔法は俺の得意分野だ。バリアの仕掛けも数段レベルを上げているようだが、破壊すれば全部関係ない。
「———閃天」
熱を纏う光の光線が、折り重なるバリアを全て貫通し、破壊する。粉々に砕けた魔力の残骸に触れると、やはりそれはガロウのものであろうことがわかった。
「これくらいなら壊せるって、知ってるはずでしょうに」
「そうだな。お前が油断をしがちなのも知っている」
振り返ると同時、顔の横を風が通り過ぎた。風は俺の翼を掠めたようで、数枚の羽根がバラバラになり落ちていく。衝撃に一瞬愕然としたがすぐに視線を前に向け、きつく睨みつける。相手は無表情のまま、再び俺を攻撃しようと人差し指を向けた。
「やはりここに来たか。バリアの強度は上げたんだが……無駄だったらしいな」
「仰る通り無駄なので、今度からはつけなくていいですよ。ガロウ」
元親友の男は右手の人差し指を俺に向けたまま、左手の中指でそっと眼鏡を押し上げる。かっちりとまとめられたオールバックの白髪は寸分の乱れもなく、余裕そうな表情が腹立たしい。こちらは必死こいて逃げて髪もぼさぼさだというのに。
見つかってしまったら変装も意味がない。魔力ももったいないし。魔法を解きいつものくるくる白髪と銀色の瞳に戻すと、ガロウの表情がぴくりと動いた。
「……脱獄後はかなりの確率でここに来ているようだが……大方、作品を隠しにでも来ているのだろう。そろそろ、場所を教えてくれてもいいんじゃないか?」
「へえ。審問官様ほどの力がある人でも見つけられていないんですね。それは良かった」
「お前のことはよく知っていると自負していたんだがな」
「まあ、この世にいる生物の中で言ったら、あなたが一番でしょうかね。……ふふ。保管場所を見つけられたら、記念にあなたが持って行ってもいいですよ」
周囲に他の天使の気配は感じないが、こいつが単身で来るわけがない。どこかに隠れているのだろう。俺を捕らえるための鎖を片手に、虎視眈々と俺の行動を見張っているに違いない。ガロウはそっと青い瞳を細めて、再び眼鏡を押し上げた。長身に見下ろされるとそれだけで圧を感じる。
「お前、天界でなんと呼ばれているか知っているか。『神域の汚点』だと」
「素敵なネーミングセンスですね。俺みたいな犯罪者の名前なんかで盛り上がっちゃって、皆さん随分と暇そうで羨ましい限りです。……今ここでまたあなたから逃げられれば、もっと素敵な名前を付けてくれるんでしょうね」
「ッ何故大人しくしないんだ。脱獄を繰り返さなければ今頃また絵を描けていたかもしれないのに、どうして! お前は馬鹿だ。汚点だのと呼ばれて悔しくはないのか!?」
こいつは何を必死になっているのだろう。俺にはそれが不思議でたまらなかった。ほら、審問官が取り乱しているから、部下たちの気配まで乱れ始めている。
「そりゃ悔しいですけど、今更じゃないですか。俺とあなたがここでこうして殺し合いをしたのだって、何百回目か覚えてすらいません。全部今更なんですよ。この先もずっと変わらないことです」
ガロウは俺の言葉に一瞬目を見開いた後、それまでうるさく話続けていた口を噤んだ。どう来る、避けられるか。緊張で目が乾きそうになり瞬きをした一瞬の後。ガロウの顔から表情が抜け落ちた。——来る。
「すぐに、拘束してやる」
その言葉を聞く前に、思い切り横に飛び退く。再び風が俺の横を掠め、アトリエの入口に大きな傷をつけた。あれが当たったら間違いなく首が飛ぶ。冷や汗をそのままにガロウの横を抜けて駆け出した瞬間、そばに控えていたのだろう天使と目が合った。ガロウの部下だ。彼は俺を視界に捉えた瞬間、手に持っていた鎖をこちらに投げてきた。咄嗟に魔法で弾き返すも、俺の身長をゆうに超えるくらいに長い鎖は俺の動きを追尾し拘束しようと迫ってくる。翼に力を込めて一気に飛び上がり、そのまま持てる力全てを使って空を突っ切った。
「くっそあの蛇本当にうざったいですね……!」
背後を振り返ると、大きな鎖が蛇のように俺を追いかけている姿が見えた。看守たちもすぐに追ってくるだろう。どうする。人間界へは先ほど騒ぎを起こしたばかりだから行けない。なら————
「あのパレードを巻き込むしかない!」
歓声が聞こえる方向へ全力で飛ぶ。メインストリートに近づくにつれ、ざわめきも大きくなっていった。和平に喜ぶ声だけではない、明らかに困惑したような声と悲鳴。巨大な鎖に追われる般若のような表情の天使がいたらそりゃ悲鳴も上げるだろう。しかし構っている暇はない。
紛れるために高度を低くし、人々の間をすり抜けるように飛ぶ。ぶつかるなんてヘマはしない。ここで天使たちが散り散りになってしまったら紛れることができなくなるが、今回はイベントの真っ最中だ。しかも歴史の転換点。人々はすぐにその場を離れようとはしないだろう。
「ガロウだって、このお祭り騒ぎを台無しにしたくはないでしょう!」
メインストリートまでたどり着いたところで一度地面に降りる。周囲の人はお祭り騒ぎに夢中で突然飛び込んできた俺に気づいてすらいない。鎖も追ってきておらず、どうやら紛れることができたようだった。ほ、と一瞬だけ息を漏らし落ち着きを取り戻してから、魔法で髪の色を青に変えた。魔力が惜しいからとりあえずは髪だけで。ずっとここにいてもいずれ見つかるだろう、次はどこに向かおうか視線を走らせていると、突然、背中に何かが触れた。
「考え事とは余裕だな、囚人サマ」
腕に鎖が絡みつく——前に、振り払って駆け出した。同時に目くらましの光を放つ。周囲がざわめきで埋まった。俺を捕らえようとしたのは看守だったようで、彼も周囲の人と同じように驚き立ち止まってしまっている間に、攻撃を放つ。
「どっかいけ!」
俺の手から放たれた光が看守の体を貫通し翼を撃ち抜く。鮮血が飛び散り、その体はぐらりと傾き無様に倒れる。一瞬の静寂の後、悲鳴が上がった。集まっている人が多い分騒ぎも大きい。急ぎその場を離れようと人混みを抜け出した瞬間、足に鈍痛を感じた。見ると、親指ほどのサイズの黒い物体が足を貫いている。途端に吹き出す血。すぐに察した。人間が使うあの忌々しい銃だ。バリアを張るのが遅れてしまった。
「ああ、ああ! やはり天使は野蛮だ、凶悪な天使は殺さなければ!」
立つこともできずしゃがみ込むと、頭に響くような甲高い声が聞こえた。顔を上げると、すぐそばに銃を持った女がいた。翼がない、人間か。そばにいる少年はこの女の子供か? どうしてこんなところに人間の親子が? 混乱する頭には誰も答えを与えてくれず、周囲がどんどんと騒がしくなっていく。
「やはり和平を結ぼうなんて間違っていた、夫の言うことは甘かったのよ! 殺さないと、この場所は私たちの、っちょ、っと、何をするの! 離しなさい!」
カシャン、と銃の落ちる音が聞こえた。看守たちが女を取り押さえようと腕を捻り挙げているが、女がヒステリックに暴れるせいで苦戦しているようだった。
「その天使を殺しなさい! さあ、早く! お母さんの言うことが聞けないの!?」
何を、と思った瞬間。背中に衝撃を感じた。背中じゃない、翼が、翼の付け根が酷く痛む。さらに立ち上がることができなくなり体勢を崩した。なんとか意識を保ちながら振り返ると、少年が銃を持っているのが見えた。あいつが、撃ったのか。
翼は動かせそうになく、体がふらつく。看守は依然女を取り押さえようとしているが女も必死に抵抗しておりその場は膠着状態。いや、もしかしてチャンスか。痛む足に力を入れて立ち上がり、そばにいた少年の手を引く。母親の悲鳴が聞こえたが気にしない。子供を抱えたまま、全速力で駆け抜ける。
弾丸が空けた穴が痛む。翼を動かそうと思っても、痛むばかりで飛べそうにない。まさかあんな銃でダメージを負うことになるなんて。腕の中の子供は、銃を持つ手をかわいそうなほどに震えさせ、見開き引きつった瞳で俺の背に視線を向けているようだった。恐らく翼からはおびただしい量の血が流れているのだろう。
服の上から大事な、大事な作品を撫でた後、左手で子供を抱える。遠くから声が聞こえた。
「その天使を殺しなさい!!!」
金切り声のような叫びが聞こえるたびに、子供の震えが大きくなる。看守達に連行されながら、あんなにも強く叫べるのか。それほどまでに人間は俺たちを憎んでいるのか。この子もあの母親も、俺があの場にいなければこんなことにはならなかった。可哀そうに。
「走るよ。暴れたら落とすから」
飛べないのなら走るしかない。きっと逃げ切ることはできないとわかっているけれど、必死になって足を動かした。子供はこくり、と頷いた後、大人しく俺の腕に収まっていてくれている。騒ぎを置き去りにして駆け抜けてどれくらい経っただろうか。周囲に人影がなくなった。どうやらメインストリートから離れた郊外に来たらしい。廃屋ばかりが連なるこの場所は俺も何度か隠れ家としてお世話になっている。
近くの廃屋に入り、一息をついた瞬間膝から崩れ落ちた。ほぼ無理やり走っていたせいで限界が来たらしい。足から流れる血は止まることなく地面を汚していく。ほとんど無意識に治癒の魔法をかけ始めた。思考が安定しない。
「……あの……」
子供の声がした。そっと腕を離してやると、子供は銃を握りしめたままゆっくりと俺から離れていく。先ほどまでの脅え切った表情はなく、少し落ち着いたのかおずおずと俺の顔を見るばかり。
「……あなた、人質になっているというのに、随分冷静ですね」
治療を続けながら子供の様子を見る。大きな怪我はしていないようだったが、手にすり傷があるのが見えた。血が滲んでいる。
「怪我、してますよ。見せてください」
まとまらない思考のまま手のひらを差し出すと、子供は困惑した表情のまま、けれど腕を手のひらに乗せてくれた。傷はそこまで深くない、俺でもすぐに治せそうだ。そっと手を翳し治癒の魔法をかけてやる。ふと見ると、首やお腹にも傷があるようだった。めくれてしまったシャツをそっと持ち上げ、お腹にも治癒魔法をかけていく。せっかく人質を連れてくることができたが、今回はここまでのようだった。
「……もうすぐ、大人たちがやってきます。俺はそこで捕まって連れていかれるので、俺に殺される心配をする必要はありません。俺が君を連れ去る現場も見られていると思うので、大人たちに君が傷つけられることもないでしょう。事情を聞かれるかもしれませんが、その時は、俺に無理やり引っ張られたと言いなさい」
「え、で、でも……お兄さんは?」
「俺のことはいいんですよ。慣れていますし……ああ、でも、君のお母さんはどうなってしまうんでしょうか。俺にはちょっと、助けられないかも、しれないです」
「お母さんのことは……いいよ。だいじょうぶ」
子供はやけに大人びた表情でそう言った。そして俺の翼にそっと触れる。まるで自分が傷ついたかのように傷を見る瞳が、なぜか記憶に残った。
「それもいずれ治るので、大丈夫です。心配はいりません」
遠くに、声が聞こえる。大勢の声。恐らくガロウ達だろう。血の跡を追ってきたのだろうか、随分と早い到着だ。今回はまあまあ頑張った方じゃないだろうか。ふと思い出し、服の中を探る。見つけたカードを手に取り子供に握らせた。
「これ、俺の命より大事なものなんですけど……どうしても奪われたくないので、あなたに預けます。返さなくていいです。ただ傷つけられずに存在していてくれれば、それでいいので。なので、誰にも見つからないように、持っていてくれませんか」
ぎゅ、と小さなその手を握る。子供は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに真剣そうな瞳に代わり、こくりと頷いた。ああ、良かった。この子ならきっと大丈夫。
ふ、と意識が途切れ、体に力が入らなくなる。最後に視界に映ったのは、泣きそうな顔で俺を呼ぶ子供の姿だった。
ぱちり。目を覚ます。
日差しが眩しくて思わず顔を顰めた。懐かしい夢を見ていた気がする。何百回と繰り返した脱獄の中でも一等印象的で、忌々しい記憶。俺の翼を壊したあの弾丸。
「あの子はどうしたんでしょう」
なんて今となっては知ることなど到底できない疑問をその場に残して立ち上がる。コウキの声がしないが起きているのだろうか。そっと運転席から出てソファを見ると、コウキはすでに起きており、スマホを見ているようだった。俺が声をかけても視線を逸らさず、ただ目を見開いて画面を見続けている。嫌な、予感がした。
「なに、見てるんですか」
「……セス……」
呆然としたままのコウキがスマホを差し出す。恐る恐る受け取り画面を見ると、そこには、知られたくなかったことが、無慈悲にも鮮明に書かれていた。
『S級指名手配犯、刑務所から脱獄中! 何度も逮捕されては脱獄を繰り返してきたS級指名手配犯の天使、セス・エリオン。今回の脱獄は確保が難航しているようで、すでに姿を消してから半年が経過しており——』
『指名手配犯は海上国でも窃盗罪で罪に問われており、店を破壊して品物を奪い取ったことも——』
「……ぁ」
意味のない声が漏れた。手の震えは止まることなく、思わずスマホを滑り落とす。そのままコウキの足元まで滑り落ちたスマホは拾われることはなく、しかし画面に無慈悲に真実を映し出している。視界が歪む。震えは体にまで伝染し、制御ができない。
知られて、しまった。俺から、俺から話そうと思っていたのに。知られてしまった。俺が、最低最悪の犯罪者だということを。
「……セス」
震える視界がコウキを映す。ああ、ここでお別れだ。覚悟はしていたが、でも、こんな形で終わりだなんて。嫌、だ。しかしコウキはやけに冷静な表情のまま俺の目をしっかりと見つめ、こくりと頷いた。
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