「傘とスパイと火曜日の朝」
火曜日の朝、僕は傘を忘れた。
玄関を出た瞬間に雨が降っていたのだから、家に戻って傘を取ればよかったのだけれど、僕はそれをしなかった。というより、「まあ、どうせすぐ止むだろう」と思った。
こういう油断が人生を台無しにするんだと、数時間後に気づくことになる。
会社に着いたとき、僕のシャツは体に張りついて、まるで海辺のクラゲみたいになっていた。上司の田中は、それを見てニヤニヤしていたが、彼のYシャツも大差なかった。
「傘ってさ、信用できないよな」と田中が言った。「持ってると降らないし、持ってないと降る」
「天気予報のせいじゃなくて?」
「いや、たぶん傘そのものが、俺たちを試してる」
言ってから田中は、自分の言葉が思ったより意味深に聞こえたのか、少しだけ得意げな顔をした。
その日の昼休み、僕は会社の裏手にあるベンチで、濡れた靴下のまま煙草を吸っていた。すると、知らない男が隣に座って、急にこう言った。
「君、スパイじゃないか?」
「え?」と聞き返すと、男はまるで「今日は火曜日だね」とでも言うような自然さでうなずいた。
「雨に傘を持たずに出てくるってのは、連絡の合図だろう。モールス信号みたいなもんさ。『次の動きは、まだか』っていう」
「いやいや、ただの忘れ物で…」
「スパイはそう言うんだよ」と男は言い、ベンチの反対側からすっと立ち上がって、路地裏に消えた。
彼の残り香には雨とミントの匂いがした。ちょっとだけ洒落ていた。
その後も男は、僕の前に何度か現れた。郵便局の前、駅の自販機の横、歯医者の待合室。彼は必ず「スパイ」と僕を呼び、僕はそのたびに否定したが、彼は全然信じなかった。
そして、とうとう僕も「もしかして本当に…」と、少しだけ思い始めた。
僕たちは、自分が誰なのかを完全には知らない。自分の見ていない夢を、誰かが代わりに見ているように、自分の知らない役割を、うっかり演じているかもしれない。
火曜日の朝に傘を忘れたせいで、僕はスパイになった。
それは間違いなく偶然だったけど、世界はたいてい、偶然を足場にして動いている。
だから次の火曜日、僕はあえて傘を持たずに家を出た。
僕が本当にスパイだったかどうかは、今もわからない。でも、あの男がまた現れたということは、少なくとも誰かにとっての“何か”ではあったんだろう。
そして、そういう“何か”が、人生にはけっこう多い。
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