十三 蝶と散る

 凍星のたもとにて、あおい月が泉水いけに浮いていた。

 突如として、花に連れ添っていた蝶が橋に集った。


 妙だった。小夜衣を纏った恭子きょうしが、覚束ない脚取りで地に降り立つ。そして、何の躊躇もなく、泉水に脚を入れて渡り、橋で舞う蝶に笑った。


「ふるり……ひらり……はらり……蝶々、蝶恋花」


 予知夢どころか、神も仏も信じない恭子のおもかげさえ解らない妄言の数々が、雪と共に落つ。


 恭子が生きていた頃、彼女が気に入っていた一郭いっかくがある。四季折々の花が泉水のほとりで馨る庭園だ。冬だというのに梅が咲いていた。血のような八重の紅梅と、雪のような白梅。恭子は梅の花を好いていた。きっと蓉子ようしのような毒の嬰孩あかごではなく、華よりも咲く姫君が生まれていたのなら、その名には梅を咲かせたのではないか。

 一方で、泉水に自生するハスは嫌厭していた。反吐が出るような泥地に根を張るからだ。それで恨めしい吾子に「蓉子ようし」という名をつけた──というよりは、ハスのように醜い名であれと祈ったからだ。


 蝶恋花蝶は花に恋をするという詞牌しはいがある。

 先に散った花に蝶は寄り添う。そして歎く。


 蝶という蟲が恋をするのは花だ。


(男は蝶、女は花)


 否──と、蓉子は頸を振った。

 恋をして咲いた女が花ならば、恋など想わず、咲かずに実を結ぶ女は花ではなく華なのではないか。


 花は蝶と共に散らない。


 恭子は恋を嫌った。

 華だ。


 華と蝶ならどうだろうか──。


(いや……そんなのどうでもいい)


 華だろうが花だろうが、蓉子にとってはさして変わらぬものだ。

 蝶が舞う。宵の空に、ただ静かに。


「蝶は花と散らず」


 幻想の如き詩を恭子が口遊くちずさんだ。ほとんど顔を合わせることがなかった蓉子が眉を寄せるほど奇妙なことだ。詩などくだらないと一蹴していた者が詩を口遊むなど。


「蝶は華と散れ」


 宙を游いでいた幾千の蝶が、泉水いけの小舟を眼下に集い、弧を画く。花葩と見紛う蝶に指を伸ばし、恭子の舞と詩は続く。


「華は――想ふ蝶とうつろふことならむ」


 玉を転がすような詩声と共に、月の輪郭が夜空に融けた。それに惑わされた刹那の間に、碧い泉水が飛沫を上げる。双翅を濡らされた蝶が、果敢ない色に染められて落ちた。靡いた絹のような水越しに、小夜衣の女の顔が映る。死期を聡ったような、否、それにしては恐れを忘れたように微笑を零していた。天満つ星よりも静謐で、安らかな微笑だ。叢雲の翳で消えそうな、月影のような。


 ただ、刹那の出来事だった。

 それなのに、舞い落ちる滴も、溺れゆく蝶も、水面の月に引き込まれる女も、雪が落つるよりもおもむろに過ぎた。


(これが──忘れることのない、死)


 死というにはあまりに幻想的で。

 詞牌しはいの佳景を現世に映し出していた。


 しかしながら死に惹かれたのはその一瞬だけであった。間もなくして、敏捷に時が流れた。当然、恭子の表情を窺う暇などなく、さながらいさの潮吹きのような飛沫が上がった後、遺されたのは波紋に揺らめく碧い月と星のない昏い夜空、そして濡れた橋と泉水を囲う石のみであった。


(嗚呼、死とは)


 これほどまで呆気なく終わるものなのか。

 醒めない夢がないように。


 医が口を揃えて恐れる死とは、夢幻ゆめまぼろしの泡が破ぜるようなものなのか。


(私はこれを嫌っていたんだ)


 屍人にはどんな薬も効かないのだから。

 死が訪れるそのときまでに、妙薬で救わなければ──。


 《毒鬼姫》の一番傍らであり、一番彼方で生きていた華が、散った。

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