十二 ひとは癒え、蝶は散る

 中宮と話してからは二週間の時が経っていた。

 蓉子ようしが再び後宮に脚を践み入れると、七里香ジンチョウゲの咲く園にて、伽羅きゃらの舞姫が舞を披露していた。


(ちかづかなければ、ただ美麗うるわしい蝶)


 今更見惚れるような蝶ではないが、この地で咲く華たちにとってはそうでもないだろう――殺めるのを躊躇うほどに。


 一つ結びに小袖姿という、貴族のむすめらしからぬ恰好で川上のいる御舎を訪れると、外でっていた女房に吹かれた。


「薬です」


 一語で房室へやは静寂に包まれた。川上の更衣こういが双眸を瞠りながら、眉間に皴を寄せた。


「薬はどこにあるの? その木筺きばこの中にあると云うのかしら」


「そうです。この筺の中にあります。患部に貼ってください。こまめに貼り替え、患部を濯うことをお忘れなきよう、お願いします」


 川上の更衣が、半ば強引に木筺を奪う。中には、湿り気のある薄い布が入っていた。譬えるなら、絹糸を解いて紡ぎ直したものだろうか。もう一つ、透明な液体の入った薬瓶がある。


「意味が解らないから説明してほしいわ。まず、この布と薬瓶はどういうもので、どのように使うの? 適量も解らないわ」


「その布は紗布ガーゼです。患部に貼ってお使いください。乾いたら、その薬瓶に入っている薬水に浸し搾ってください。ただ乾くたび、紗布は替えることを勧めます。典医なら、紗布は持っているでしょう」


 一連の出来事で、紗布が不足するのは眼にみえている。蓉子も、翌夙あすあさから紗布を担いでくるつもりでいた。

 川上の更衣は未だに腑に落ちないのか、貌が崩れない。


「薬水は何でできているの? 地中を這う蛇や、……蚯蚓キュウインじゃないでしょうね……?」


「大丈夫ですよ。十薬ドクダミヨモギ問荊スギナを使っているので」


 蛇が薬にならないというわけではないが、藥非萬靈薬は万能ではないというように、薬は択ばねば意味がない。如何なる秀でた医も、毒によって薬を変える。


(そもそも蛇酒は滋養強壮に使う)


 若年の天子から御声がかかるとはおもえない。蛇を丸一匹捕まえて醸造する意味はなかった。

 川上の更衣は十薬の《どく》ということばに反応したのか、口唇を噛み締める。だが、貌に紗布を当てた瞬間に面持ちが変わった。


 泡がれた。

 患部の赤みが引いていた。


「……まさか……こんなことが……」


 しかし、房室へやの中を満たす馨りに、蓉子は貌を顰めた。みれば、板の間に頸から落ちた七里香ジンチョウゲの花が横たわっている。

 まるで感情の込もらぬ声で、失礼ながら、と尋ぬ。


七里香ジンチョウゲは片付けられましたか」


「片付けるですって?」


 御簾の間からの翳が視界に映った。翡翠の双翼が舞う。

 悲鳴が上がるのは解っていたが、蓉子ようしは咄嗟に手を開き、その中で蝶を握り潰した。ぱさりと乾いた音と共に、舞姫の霓裳げいしょうの欠片が散った。


 房室で悲鳴が何重奏となり響く。


「ち……蝶を、潰……」


「……生命拾いしましたね。でも、しばらくはこの房室を離れてください。私が床を拭きます」


 振り向いた蓉子は、決して笑ったわけではなかった。それなのに嫣然えんぜんとした妖女の微笑と見間違えたのは、齢に見合わぬ物腰ゆえだろうか。


「この蝶が、貴女の《毒》ですよ」


 麗女の妖術に魅せられた川上の更衣は、女房を引き連れ隣の房室に移った。






 落ちたはねと鱗粉を拾い上げ、雑巾で跡形もなく粉を払う。

 そして、残っていた七里香ジンチョウゲを小川の中へ落とした。かぐわしい花は清き水に触れ飛沫しぶきを上げ、呼吸いきを止める。白紫びゃくしの花の散り際だ。悼むように蝶が舞い翔ぶ。


 一羽の蝶が、蓉子ようしの指に寄った。人差し指を差し出すと、静かに蝶が留まる。それには産卵管がなかった。雄の舞姫だ。


「番だったのか」


 先刻、蓉子ようしが沈めた花の番だったのだろう。死ぬ間際まで添い遂げる花を喪った蝶は如何どうなるのか──どの典籍にも叙述がなかったと蓉子は眼を瞠る。

 この蝶は、舞い戻る場処を失った。

 蝶花偕老共に老いるまで添い遂げるというのに。


 花にとっては、己の花蜜を吸う蝶の一羽に過ぎない。

 だが逆は違うのだ。この蝶にとっての花は一輪しかない。譬え己が毒を身に宿す者だろうと──……。


果敢はかないな)


 片翅の純愛、そして殉愛。そして叶わぬ恋。

 蝶にとって花はなんなのか。愛を抱く番なのだろうか。そんなのは、人間が噂した夢想ゆめに過ぎないのか。

 蝶の想いも、花の想いも、ひとの心は露知らず。


 徐々に蝶の双つの翅が鈍くなり、仕舞いには風が吹いた。

 雪か、花葩か──それを想わせる果敢ないあくたが舞う。花の散り際ということばはあれど、蝶の散り際ということばはないだろう。


 蝶が、散った。

 花というには果敢なすぎる散り際だ。


(これが後を追うということ)


 散った花を追いかけ、蝶が散る。

 散り際と云えば美麗しい。死に際と云えば穢らわしい。


 蝶が死ぬとは、これほどまでに哀しく果敢ないものなのだろうか。愛する妻や夫を喪った片割れは、同じ想いを抱くのだろうか。

 陰陽だんじょの仲は、共に逝く運命なのだろうか。


 そう云えば、と蓉子は想い出す。


(妣は死んだ。蝶と共に散ったんだ)


 あの晩も、蝶が散った。否、

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