九  翡翠薄羽

 後宮の華は荒んでいた。

 誰もが単衣ひとえ随処ずいしょを脱ぎ、爪で掻いたり、はたいたりしている。


「とてもかゆいのです……よるねむれぬほどに……」


「全身を掻きむしりたくて、仕方がないのです! これでも抑えている方で……もう、どうしたらいいの……!!」


 ひとりひとりの刺された箇処かしょを記録し、注射器の番号と照らしあわせていると、さねが肩越しに尋ねてきた。


「こんなに大勢のひとが、いちどに発症するって、あり得なくないですか? 刺すむしだって、夏が山場じゃないですか」


「……そんなことないわね。春に舞うあの美麗うるわしい蟲も、そうだもの」


 後宮という場処ばしょは、さねが甘美に眼を細めるのもうなずけるところだ。


 きよらかな泉水いけに掛かる反橋そりはし窈窕ようちょうと竚んでおり、耳に心地良い清流の音色を立てていた。奥床おくゆかしい水亭すいていに差し掛かったところで、ひらりとあまやかなかげが視界をよぎる。かぐわしい香にいざなわれて視線を向ければ、七里香ジンチョウゲの花に、鮮烈あざやかながらしとやかな色彩が映る。蝶の翡翠色ひすいいろの双翼がみどりからあおの濃淡をえがき、夢想ゆめの舞をせていた。


 伽羅きゃらの舞姫とも称されるのは、麗人ではなく──蝶だ。

 その蝶の名は、翡翠薄羽ヒスイウスバという。


「……わぁ……なんというか、桃源郷の景色みたいです……」


「この翡翠薄羽は、後宮や宮廷で鑑賞目的に、ふるくから飼育そだてられている蝶よ。後宮の花々ととりあわせて、それこそ桃源郷を髣髴ほうふつとさせるのが狙いなの」


 伽羅きゃら沈香じんこうの最優品である。翡翠薄羽は馥郁ふくいくたる香を振り撒く花に寄り集まることから、因んで名付けられた。


 そのときだ。

 舞姫に誘われたか否か、さねがぼうっと花蝶かちょうをみつめながら、歩を進める。一羽の蝶が花を発った瞬間、蓉子ようしはさねの肩を平手打ちした。


「っ……!?」


 さねのひとみに光が戻る。どこか困惑した表情ではあったが、我に返ったようだった。


(良かった)


 蓉子ようしが胸のうちで呟くと、さねは「ひ、姫様……えっと……」と口唇くちびる震動ふるわせた。先刻さきほどの蝶が蓉子ようしの指にとまり、そしてまた花に帰っていく。


「さね、実は翡翠薄羽の鱗粉りんぷんには、毒があるの。触れると痒みを引き起こすわ」


 その痒みは、尋常ではない。

 鱗粉が触れた箇処かしょは、よるも寝られぬほどのはげしい痒みに襲われる。ひとたび掻くと、肌膚はだきずがつき血がでてもなお、掻きむしり続けるほどだ。


 翡翠薄羽は一年で死ぬ。

 一輪の花の蜜を吸い続け、花が枯れると同時に息絶える。その様子さまを、一生かけて添い遂げることになぞらえて、三百年以上前から、恋愛成就のまじないに使われてきた。

 そして、皆が決まって痒みに襲われて、いんわからず、翡翠薄羽の毒も、学界のほかは認知されることなく、今に到る。


「そ、そうなんですね……危なかった……って、痒み!?」


「彼女たちを苦しめているのが翡翠薄羽かは、まだ決められない。でも、彼女たちの血液に、翡翠薄羽にしかない成分が含有ふくまれていれば、こいつのせいね」


 先刻さきほどまでは伽羅きゃらの舞姫に誘われていたさねも、それを聞いた瞬間、ひとみを燃やしだした。


「うわぁ……こ、この野郎ー!!」


「だから触るなって云ってるでしょ」


 拳骨を高らかと掲げたさねの手頸てくびを、ひっ掴んで制する。

 翡翠薄羽は、ひらひらとそらに舞って、向こうの花に移っていった。


「あー! どっかいっちゃう!!」


「どうっ、でもっ、よろしい。早くっ、帰るっ、わよっ……」


 蓉子ようしがさねの眉間に、手刀をいれる。「うっ」と声を上げたのち、さねの口の中から、魂魄たましいけていく。さながら、蝶──というよりは、狼煙のろしのようだった。

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