六  春霞一重

 注射器の中に詰まった生々しいほどの血を、顕微鏡の載片玻璃スライドガラス涓滴いってき垂らす。

 倍率は、四に十五を乗じた六十。

 すこしも見逃してはならない。まわしに手をかけ、ぼやける輪郭に焦点をあてていく。


「なにかわかった?」


「……話しかけるんじゃない」


 十五に十五を乗じた二二五倍で映ったのは、粒状のものがひとつ、透明感のある嚢状ふくろじょうのものだった。

 筆を執り、流麗りゅうれいなてつきで線と点をく。


「……これは……なに?」


「肝細胞ね。肝臓の六割を占めている細胞だわ」


 医学に関しては初心者のしの字もない雅明まさあきは「さいぼう?」とくびかたぶける。


「細胞というのは、生き物の最小単位。すべての生物は細胞の集合体でできているの。そして、肝細胞という細胞が集まって、肝臓という内臓ぞうきをつくりだしているわけ」


 四十に十五を乗じる。

 視界はくらく、端に映る睫毛まつげ欝陶うっとうしい。

 視界にひろがる肝細胞。そして、その輪廓りんかくに、突起のついたこまやかな物体がかんでいた。


「……春霞一重はるがすみひとえ


「へ?」


サクラの品種のひとつよ。染井吉野ソメイヨシノに似た花とかおりを持ち、生育そだてやすいのだけれど、全草に猛毒があるわ。即効性のも遅効性のもあって、あわさると複雑化して厄介やっかいなの」


 春霞一重はるがすみひとえという雅やかな名にはふさわしくない。その毒の名は久末利尓クマリンといい、どのサクラにもある。普通は葉に含有ふくまれ、桜餅として口にするぶんには大丈夫だ。だが、多量であると肝機能障害をひきおこす。春霞一重はるがすみひとえの場合、どんなにらしてしおにつけても、致死量であることには変わりない。

 そして、春霞一重はるがすみひとえには、更なる厄介さがある。


「受粉すると、遅効性のおしべの花粉と即効性の柱頭の片があわさって、おそろしい毒になるわ。そのとき、花粉がマメのような形から、不規則に突起の生えた形に変わるの」


 今回、萩子しゅうしの体に影響をあたえたのは、久末利尓クマリンだ。久末利尓クマリンにも種類があり、即効性のと遅効性のがあわさった結果できたのが、先刻さきほどの花粉である。

 久末利尓クマリンを解く薬は、比多三尓介引壱ビタミンケーワン及びそれを含有ふくむものである。


比多三尓介引壱ビタミンケーワン……茼蒿シュンギク縞綱麻モロヘイヤ和布ワカメ海苔ノリ、それから菜種油といったあたりね」


「その、びたみんけいわんというやつはわからないけれど、食べ物はよく聞くよ」


「そうでなかったら、弥和国みやまとのくにの都のにんげんであることを疑うほどでしょう」


「……うん、だね」



    ◇



 やしきにあるくりやから、庭園の一郭いっかくたたずはなれに、蔬菜そさいなどを持ち寄る。

 いくさはこれからだ。


 まず、蔬菜そさい海藻かいそうあらう。

 そして、それらを庖丁ほうちょうで切る。千切りどころかともすれば糸にでもなりそうな細さで、均等に切っていく。

 そして、清潔なふくろに詰めこむ。


 それからだ。


 太古の世で使われていたような石の塊の上にそのふくろき、その上にひと回り小さい石を措き、全体重をかけてす。

 これが、蓉子ようしかんがえたしぼり器である。


 これだけの力をかけて圧しても、得られる搾り汁はほんのひと握りだ。三、四回ほど繰り返せば、ようやく汁碗一杯をたせる。

 汁碗が充ちたら、菜種油をいれる。


「あれ。薬膳にしないの?」


「そんな遅い方法でやるひまなんかないわよ。薬膳は時間がかかるの。あの様子さまじゃ、さっさとませないと。医が治せる生命いのちを見逃すわけがないでしょう」


 延々とそれを繰り返し、汁碗が五杯ちたところで、蓉子ようしは手を止めた。

 山といそ智慧ちえを凝縮した、緑色の搾り汁だ。


「これを固めるわ。ほんとうなら、ありとあらゆるものを使うのだけれど、今はそんな時間なんかないから」


 何重もの嚢にいれた搾り汁と生籬いけがきにすこし残っていた沫雪ゆきはこにいれ、絶対に空気が入らぬように気を使う。上にある穴のふたを開け、火桶の火にかける。


「……これで空気をける」


「え。空気って、拔けるの? だって、どこにでもあるじゃないか」


沫雪ゆきかして水にし、それを水蒸気にするわ。そうすると、中は水蒸気で充たされて、空気は、穴から逃がす。すべてが水蒸気になる前に水をすこし拔くの。そうして冷やして、水蒸気を、水にする。これで真空になるの」


ぼくは一生かかっても敵わないね」


 完全なる真空にすることは不可能だが、限りなくちかづけることはできる。計算上、かかる時間は八半刻*十五分。早くても、遅くてもいけない。世のことわりとはそういうものだ。すこし違うだけで、なにもかも変わってしまう。

 頭の中で、花のつぼみが綻ぶ。時間を、違えてはならない。


(今だ)


 はこを持ち上げてすぐにふたを閉め、沫雪ゆきの中にいれて包む。廚にく走って、柑橘類に似た果実を持って離に駆けこむ。


「なにそれ?」


橙実ダイジという、蜜柑に似た柑橘類よ」


 果汁を搾り出し、砂糖水を加えて混ぜる。琥珀のような砂糖水だ。


「毒見して」


「僕が?」


「毒なんか入っていないけど、さじひとくちでいいから」


 雅明まさあきが匙を口に運び、口唇くちびるを動かす。


「……あまい。美味しい」


「よかった」


 そう云いながら蓉子ようしは走り、はこを取り出して振動る。中から音はしない。真空だ。

 はこを開けた直後に嚢を取りだし、中をみる。はらとした粉ができていた。


(できた)


 よるは白々と明けそめている。


(急いで届けなければ)


 払暁あかつきの地を、ハスの花が駆けた。

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