第26話 癒しの力

息を切らし、疲れ切った顔をしているのに、誰もが、どこかほっとした微笑みを浮かべていた。

その中で、アイが一歩、奏太に近づいた。

彼女は静かに目を伏せると、手を奏太の胸元に当てる。

そこから、柔らかな光が広がり始めた。


――癒しの力。


博士が開花させてくれた“守る”ための力だった。

だがその手のひらから伝わってくるのは、間違いなく、人の温もりだった。

奏太の胸の奥に、まだ残っていた黒い侵蝕…それが少しずつ、光に溶かされ、洗い流されていく。

アイの額には玉のような汗がにじみ、身体は小刻みに震えていた。

必死に、全身全霊で、奏太を救おうとしているのがわかった。


「もう、大丈夫。」


アイは小さくつぶやきながら、さらに力を込めた。

しばらくして、奏太の顔から強張りが消え、呼吸が深く、安定していった。

奏太は、ぼんやりと、アイを見上げた。

そして――

か細く、けれど確かな声で言った。


「……ありがとう。」


アイは、はにかんだように笑った。


「ううん……あなたは、生きるべきだから。」


声が震えていた。

誰よりも、彼女自身がそれを信じたかった。

やがて、アイの光が静かに収束していった。

彼女はふらりとバランスを崩しかけたが、すぐに真咲が支えた。

達臣も、ほっとしたように小さく笑い、瑠宇は目を細めて、小さく頷いた。


「――本当に、助かった。」


月は静かに、雲の合間から顔をのぞかせていた。風は柔らかく、乾いた草の間をすり抜けるように吹いていく。虫の声も遠く、ここにはもう、あの闇の気配はない。

真生、達臣、アイ、奏太、瑠宇、真咲。

誰からともなく、言葉が零れ始めた。


「最初の実習の朝、さ。あの白衣を着たとき、まさかこんな場所に辿り着くなんて思ってなかった。」


真生が、呟いた。


「でも、あの日から全部が変わった。奏太がいなくなって、Re:Routeの名前を聞いて……俺、怖かった。何も知らなかった自分が、情けなくて。」


彼の声には静かな怒りと後悔、そしてほんの少しの誇りが混じっていた。


「奏太がいなくなって……怖かった。自分のすぐそばにいたはずの存在が、急にぽっかりと消えて……。でも、それ以上に、自分が“何もできなかった”ことが、悔しくて仕方なかった。だから、突っ走った。誰にも止められないくらいに。でも……正直言うと、俺一人じゃ、何もできなかったんだ。むしろ、途中で何度も折れそうになった。けどさ……」


真生はゆっくりと顔を上げ、一人ひとりの目を見た。


「そのたびに、誰かが傍にいてくれた。達臣、お前がバカみたいなテンションで引っ張ってくれたおかげで、何度も笑えた。アイ、君の言葉がなかったら、俺はとっくに自分を見失ってた。瑠宇、真咲、お前らが見せてくれた強さと優しさが、どれだけ支えになったか……本当に感謝してる。」


その声は震えていなかったが、静かで、心の奥深くから発せられたものだった。


「みんなに支えられて、俺……やっと気づけたんだ。“誰かを助けたい”って気持ちは、自分一人で抱え込むものじゃないんだって。仲間がいて、支え合って、補い合って……初めて前に進めるんだなって。」


風が一瞬だけ木々を揺らした。


「今ここに、こうしてみんなといるこの瞬間が……俺にとっては、本当に奇跡みたいなんだ。ありがとう。……みんな、本当にありがとう。」


沈黙が降りた。だがその沈黙には、温もりと絆が満ちていた。


やがて、達臣が「……お前、泣かす気かよ。」と笑って肩を叩き、アイが静かに微笑みを浮かべる。瑠宇と真咲も目を伏せながら、しかし確かにその言葉を受け止めていた。


「お前にもう一度会えてよかったよ、奏太。」


真生の言葉に、奏太が目を細めて笑った。けれど、その笑みの奥には深い痛みが見え隠れしている。


「……繭の中にいたとき、目を閉じると誰かの声が聴こえた。俺に語りかけてきた。もう楽になれ、って。でも、真生の声が、ずっと離れなかった。お前の声が、“帰ってこい”って呼んでるような気がして……それだけが、俺を繋ぎ止めてた。……俺は最初から逃げ腰だったよ。勇気なんてなかった。だけど、真生と出会って、皆と出会って……自分がなにを恐れてたのか、ようやくわかった。」


彼の目はどこか遠く、しかし芯の強さが宿っていた。


「この手で誰かを守れるなら、それでいいって、今は思う。少なくとも、逃げ続けるのはもう終わりだ。」


「……俺は逃げてた。バンパイヤハンターの末裔って調子に乗って、何も見ないふりして、ネットに潜って、ガラクタ集めて、現実逃避してたんだ。でも、もう逃げねえよ。だって、あの日の痛みは……もう、誰にも渡せない。」


「俺は……ずっとRe:Routeにいた。アイたちのような存在を“管理する側”だった。感情を切り捨てるようにして、数字だけ見ていた。」


彼の手が、無意識にポケットの中のIDカードをなぞる。


「でも、本当はずっと怖かった。自分のしていることが、正しいって言い聞かせなきゃ生きていけなかった。……だから、今度こそ、俺は責任を取る。」


そして、真咲が口を開いた。


「私も……研究開発に夢中だった。成果のためなら倫理も踏み越える。そういう空気に染まってた。全部が崩れた気がした。」


彼女の手には、小さな金属片――かつてのRe:Routeで使われていた被験者タグが握られていた。


「これからは、誰かを守るための“技術”を創りたい。もう、誰の命も奪わせない。」


彼らの心に残された“断片”が、言葉になり、音になり、火の粉のように空に舞った。

それは確かに、終わった物語の名残でありながら、始まりの合図でもあった。


戦いの終わったあとの世界には、不思議なほど静かな風が吹いていた。

敵は砕け、空はひらけ、陽光がゆっくりと降りてくる。

だが、その光がどれほど優しくても、アイの心の空白は埋まらなかった。

目の前には仲間がいた。真生が、達臣が、瑠宇がいた。

だけど、彼女は一歩だけみんなから離れて、静かに廃墟の柱に背を預けた。


――終わったのに、どうしてこんなに苦しいの?


勝ったのに、胸が締めつけられるように痛む。

もう何も奪わせないと誓って戦ったはずなのに、気づけば取り戻せないものばかりを想っていた。


そのとき――


目の奥に、柔らかな光が射し込んだ。

意識の縁がふっとほどけ、視界がぼやけていく。

次に目を開けたとき、彼女はそこにいた。

それは“記憶の庭”。

博士がかつて、施設の一角にひっそりと作っていたシミュレーション空間――

子どもたちが遊ぶための、ほんのわずかな「やさしい世界」。

だが今、それはデータではなく、どこか現実のような質量をもって彼女の目の前に広がっていた。

陽だまりの芝生、風に揺れる白い花、小さな噴水。

遠くにはブランコが揺れ、その上で、ひとりの少女が笑っていた。


「……アカリ。」


声が漏れた瞬間、少女がこちらに気づいて、にこりと笑う。


「あ。来てくれたんだ、アイ。」


その笑顔は変わらなかった。

あの頃と同じ、どこまでもまっすぐで、優しいまなざし。

アイは思わず走り寄る。何も言えず、ただ、アカリを抱きしめた。


「ああ、アカリ……ごめん、ごめん……!」


「なにが“ごめん”なの。私、ちゃんと見てたよ。あなたが全部、守ってくれた。私じゃない誰かを、ちゃんと助けたんだよ。」


アカリの声が、髪を撫でるように柔らかく響いた。


「私、うれしかった。ずっと……あなたが生きてくれてることが、なによりうれしかったの。」


その言葉に、アイはもう涙を止められなかった。

そして、もう一つの気配が近づいてきた。


「こらこら、泣くほどか! もっと誇らしげに笑うと良いぞい。」


アイが顔を上げると、そこには懐かしい人影があった。

白衣に身を包んだ老人――博士が、丸眼鏡の奥の目をくしゃりと細めて笑っていた。


「博士……!」


「よく来たな、アイ。元気そうで、なによりじゃ。」


「あのとき……ずっと言えなかった。私……あなたのこと……。」


「わかっとるわい。」


博士はにかっと笑いながら、アイの頭をぽんと撫でた。


博士は丸眼鏡をくいっと上げ、少し照れたように、でも誇らしげに微笑んだ。


「よく、頑張ったのう……アイ。」


その声は、懐かしくて、優しかった。


「ワシは……ずっと見とったよ。お前が泣いて、怒って、それでも立ち上がる姿を。

ほんとに、ようここまで来た……立派じゃった。」


アイの喉が詰まった。言葉が出なかった。

博士は、歩み寄って、そっとアイの肩に手を置く。


「つらかったじゃろうに……よう、逃げずに前を向いた。誰よりも人間らしい心を、お前は最後まで捨てんかった。ほんとにえらい、えらいよ。」


アイの目から、また涙がこぼれた。


「……私、間違ってなかったかな。最後まで、怖くて……。」


「間違っとるもんか。」


博士は、きっぱりと言い切った。


「お前は、誰かを守ろうとしてきた。そのたびに痛んだろうが、心はどんどん強うなっとった。それが人間ってもんじゃ。誰よりも、お前が“人間”らしく生きとったんじゃ。」


言葉の一つひとつが、アイの芯に届く。

博士は、まるで我が子を抱くように、ゆっくりアイを腕の中に引き寄せた。


「ワシはな、お前のことを兵器だなんて、ひとっつも思っとらんかった。ただの“被験体”なんかじゃない。ずっと……お前のことを、大切な子どもとして見とったんじゃよ。」


アイは博士の胸の中で、小さくうなずいた。


「ありがとう、博士……。」


「ほんとによく頑張った。もう、無理しないで良い。……自分の人生を、歩いていきなさい。」


その瞬間、アイの胸の奥に灯がともった。

それは、どんな力よりも強くてあたたかい、“生きていい”という証だった。

その言葉に、アイの中で何かが、ほどけた。

肩にかかっていた重荷が、すうっと風に溶けていく。


「ありがとう、博士……アカリ……。私……もう少し、ここにいてもいい?」


「うん。ここは、あなたの中にある庭だから。

私も博士も、ずっとここにいるよ。たとえ姿は見えなくても、あなたが歩くたびに――背中を押してる。」


「そうじゃそうじゃ。ワシの声、またどこかで聞こえるかもしれんぞ? ふぉっふぉっふぉ!」


二人の笑い声が、風に混じって響いた。

やがて景色がゆっくりと白く溶けていく。

アカリがそっと手を握ってくれた。


「アイ。もう、大丈夫だよ。あなたは、あなた自身の道を歩いて。」


「うん……ありがとう。」


そして――アイは目を開けた。

過去は消えない。痛みも、傷も、失われたものも。

けれど、それでも前に進める。


――あの光の庭で、そう教えてもらったから。

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