第21話 アイとI
低く、響く声。
アイの肩が僅かに揺れる。
「その名を、まだ……」
「私がつけた名だ。忘れるものか」
1は一歩、アイに近づいた。繭の奥で脈動する供血装置が、不気味な音を立てる。
「お前を生み出したとき、ただの識別記号のつもりだった。I。イレギュラーのI。実験個体番号9。でも……気づけば、私の中で“名”になっていた。自分とは違う、しかしどこか似た存在。ONEとI。数字と文字、隣り合う記号。なぜか、それが……心地よかった。」
”アイ”という名は、本当は彼女が選んだものではなかった。
あの実験の最中、1が”成功した個体”に与えた識別名――その音だけが、彼女の脳に最初に刷り込まれたのだった。
“意思”でも“光”でもなく、
それはただのラベルだった。
アイは今、その偽りの名を――自分のものとして、大切に守っていた。
アイは黙って、1を睨み返していた。
冷たいはずの瞳の奥に、かすかに揺れる感情が見える。
「…まるで、娘のようだった。」
1の声は、どこか懐かしさを孕んでいた。
それは支配者の声ではなかった。
永劫の孤独の果てに、ひとつだけ手に入れた、理解できぬぬくもりへの執着。
「私には理解できなかった。なぜ、お前が人間に惹かれたのか。なぜ、“彼”にだけ笑ったのか。私は……ただ、お前を“保存”しておきたかった。永遠のままで。傷つけず、汚さずに。」
アイの目に、わずかに涙が滲む。
「でも、それは――」
「牢獄だと?」
1が微笑んだ。悲しげに。
「分かっている。お前は、もう私のもとには戻らない。だがそれでも、私は願ってしまう。この繭の中でなら……永遠に傍にいられるのではないか、と。」
アイは、静かに首を横に振った。
「私は……もう“あなた”の一部じゃない。
私の居場所は、あの人たちのそばにある。
痛みを知っても、傷ついても――それでも、生きたい。だから……行くよ。自分の意志で。」
1の顔が、ふっと笑みに緩んだ。
「そうか。ならば、私は立ちはだかるしかないな。父として、創造主として、最後まで、お前を止める責務がある。」
繭の光が激しく瞬いた。
戦いが再び始まろうとしていた。
だがその刹那、1の瞳には、かつての誰とも似ていない、たった一人の“娘”の姿が映っていた。
「終わらせる。」
その言葉とともに、彼女の身体から見えない波動が放たれた。
ズン、と空気が震える。
床の血紋が一瞬、浮かび上がる。
供血陣の赤黒い光が吸い込まれるように、アイの周囲へと集まった。
「な、なんだ……?」
アイの人体実験によって得た「超能力」。
それは単なる戦闘力ではない。
空間そのものに干渉し、敵を破壊する――
まるで自然法則すら捻じ曲げるような、異能だった。
供血陣が静かに蠢きはじめた。
淡い血の光が、割れかけた床を走る。
陣の中心部、黒赤い文様が波打ち、まるで脈を打つように音を刻む。
――生き物のように、陣は呼吸していた。
その中心に、ひとつの影が膝をついている。
“1”のコピー。
かつての完全な姿からは程遠く、精神核は剥き出しになり、破れかけた外殻から黒い血液のようなものがしたたり落ちていた。
だが、その目だけは――まだ、確かに“知性”を灯していた。
「……この陣式は、異常だ」
掠れた声が、陣の中心から響く。
その声には、怒りも、狂気もなく。
ただ、純粋な“疑問”がこもっていた。
「逆流する血。反転した構造。痛みと感情を伝播させ、精神回路に“破壊”ではなく、“矛盾”を送り込む……なぜ、そのような非合理な手段を取る?」
真生は静かに剣を下ろし、息を吸い込む。
深く、静かに――だが確かな覚悟を胸に。
「合理性のためだけに、生きてるんじゃないからだ。」
“1”のコピーは、まるでそれを理解できない生き物を見るような目をした。
「生は、効率ではないのか? 代謝。循環。管理。命を扱うとは、すなわち制御することではないのか。」
その言葉に、アイが一歩踏み出した。
彼女の足元にも、赤黒い陣の光が淡く広がる。
それは、彼女の力が反応している証――彼女自身がこの陣式の“鍵”だった。
「……博士も、あなたと同じことを言った。
でも、ある日、こう言ったの。“生きるっていうのは、効率じゃない。理由じゃない。誰かとつながって、間違えて、許して、それでも一緒にいたいと思うことなんだ”って。」
「誤りは、非効率だ。」
“1”は呻くように言う。
「“つながり”は脆い。裏切りも、憎しみも、生まれる。……そんな不安定な概念を、なぜ信じられる?」
アイの肩が震える。
けれどそれは、恐怖ではなかった。
抑えきれない、感情の波。
「私もずっと、あなたと同じように思ってた。誰にも頼らず、誰も信じず、自分の価値なんて見出せなかった。
でも――」
そのとき、彼女の手が、隣に立つ真生の手を探す。
真生が、静かにその手を握り返す。
「――でも、私は“あの人”に出会って、“この人たち”と出会って、知ったの。誰かと分け合う痛みが、どれほどあたたかいか。涙を流すことが、どれほど強いか。……それが、人間なんだって。」
“1”のコピーは黙っていた。
まるで、その言葉の意味を、本能の底で感じ取ってしまったかのように。
だが、それでも否定はやめなかった。
「ならば……我々は、人間ではない。この命の形は、違う。吸い取ることしか知らず、積み重ねることができない。“永遠”は変化を許さない。だから――我々は、君たちの世界にはいられない。」
真生は一歩、前に出た。
「それでも、俺たちは向き合う。自分と違う命を、拒絶することもできる。でも、それは“理解しようとする努力”をやめることだ。俺は――やめたくない。おまえを、否定だけして終わりたくない。」
沈黙が流れる。
激しい光と音はない。
ただ、深く、静かに。
ふたつの命が、真正面から向き合っていた。
やがて、“1”のコピーは、崩れるように頭を垂れた。
「それが……君たちの選択か。」
「……ああ。」
真生の声は、揺れていなかった。
アイは一歩進み、供血陣の中心に自らの力を流し込む。
紅い血液は光に変わり、陣を包む文様が一気に脈動する。
「この痛みも、記憶も、全部背負って、私は生きる。」
彼女の言葉に、真生も続く。
「逃げたくなったことは、何度もあった。
でも――誰かの“生きたい”って想いが、俺をここまで連れてきた。……だから、終わらせるんだ。“この呪い”を。」
光が走った。
陣の中心が爆ぜ、空間が悲鳴を上げる。
“1”のコピーが、叫んだ。
だが、それは怒りでも、恐怖でもない。
かすかな、憧れに近い――そんな声だった。
「……それが、“生”か……」
そして、光の中に、彼の姿は静かに溶けていった。
“1”のコピーが苦しみの声を上げる。
だが、その声すら飲み込まれる。
アイは、そっと右手を上げた。
その小さな掌に、膨大な圧力が集中していく。
「ここで、全部……。」
静かに、けれど絶対に逃さない意志を込めて。手を振り下ろすと同時に、空間に走る光と闇の裂け目。そこから無数の光の矢が迸り、黒い影を四方八方から撃ち貫いた。
「ギィィィィィ……!」
悲鳴とも咆哮ともつかぬ音を上げ、“1”のコピーは内部から砕け、黒い霧となって吹き飛ばされた。
塵一つ残さず――完全な消滅。
供血陣の光も、黒い影と共に静かに消えていった。
アイは静かに手を下ろし、少しだけ、息を整えた。
達臣と瑠宇、そして真咲が一斉に駆け寄った。
「アイ! 無事か!」
「すごい……本当に……!」
真生は、思わず言葉を失いながらも、アイに近づいた。
その瞳は、安堵と、心からの敬意に満ちていた。
アイは微かに微笑んだ。
「大丈夫。みんなも、無事でよかった」
その穏やかな一言が、張り詰めていた空気を緩めた。
だが、次の瞬間――
――ゴゴゴゴゴ……!
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