第13話 アイ

──アイは、無事だろうか。

あの冷たい施設の中で、今も必死に耐えているのに、自分たちはまだ助けに行けていない。


喉の奥が痛くなる。

それでも、目をそらさずに、真生は続けた。


「……アイも、絶対に助ける。あの子は、俺たちを信じてくれたんだ。今度は、俺たちが信じて、迎えに行く番だ。」


達臣は、ふと視線を落とした。拳をぎゅっと握ったまま、唇を噛む。


「……でもさ」


ぽつりと、心に引っかかっていた不安を、彼は吐き出した。


「もし……もし、アイが……“1のコピー”に操られて、俺たちを襲ってきたら、どうする?」


静まり返る空気の中で、達臣の声だけが震えていた。言いたくなかった。

でも、現実として考えなきゃいけないことだった。


「アイが……あの時、俺たちを逃がしてくれたアイが……今度は敵として、目の前に立ったら……。」


言葉の途中で、達臣は拳を机に打ち付けた。感情を抑えきれずに。

真生は達臣をじっと見た。

その瞳に宿る、不安と、悔しさと、恐怖──それが痛いほど伝わってきた。


「──アイが、“1のコピー”に支配されない理由がある。」


真生と達臣は息を呑み、瑠宇の次の言葉を待った。


「……これを、見てくれ。」


瑠宇が押した再生ボタンに、空気が凍る。映し出されたのは、古い監視記録。実験室――ではない。まるで刑場だった。

カプセルの中で泣き叫ぶ子ども、縛られたまま呻く中年男性、無言で立ち尽くす老婆。

脈絡のない対象。

共通するのは“抵抗できない者”ばかりだった。


「……これが、Re:Routeの“真実”だ。」


瑠宇の声が震えた。

真生は言葉を失っていた。

だが、止めることもできない。

モニターの中で、血液が抜き取られ、代謝促進剤が注射され、意識を残したまま神経を解析されている人間たち。


「アイが……こういう場所に?」


達臣が呟いた。


「いや。アイは“成功例”だったから、こういう粗雑な実験は免れてた。だが、彼女以外は……全員、無残に――」


真咲が言葉を飲み込んだ。

画面の奥、視界に一瞬、白衣の男が映った。顔が潰れていて判別できない。

ただ、背筋を冷やす“笑み”だけが、記録に焼きついていた。


「……これ、誰?」


真生が問う。


「主任研究員。彼は“進化の観察者”を自称していた。“生きる価値を試す”とか、“淘汰の観測”とか、常軌を逸してた。」


「何のためにこんなことを……?」


達臣が怒りをこらえきれずに机を叩いた。


「進化。」


瑠宇が冷たく答えた。


「人類の“次段階”を作るため。博士はこう言ってた。『吸血鬼の遺伝情報を、人類に転写できれば、病も老いも克服できる』ってな。」


「だったらなぜ、あんな非人道的な手段で……!」真生が震える拳を握りしめる。


「理由は簡単。”1”がいたからだ。」


空気が止まる。


「”1”……が?」


「Re:Routeは、吸血鬼である”1”を中心としたことで、存在意義が変わったんだ。もともとは国家主導のバイオ医療研究施設だった。だが、”1”の存在が発覚した瞬間から、“超人類計画”に転じた。」


「彼は……黙って見ていたのか?」


「違う。」


瑠宇の声が、わずかに熱を帯びた。


「”1”は干渉しなかった。あくまで“進化の行方”を見届ける“観察者”だった。自分の血が何を生むのか、人間たちがどう歪んでいくのか――それを、冷たく、淡々と見ていた。」


真咲が補足する。


「”1”は、自らのコピーを通じて施設の管理層に“制御”を与えていたけど、やがて研究者たちはその制御すら踏み越えて、暴走していった。“次の人類を選ぶのは我々だ”と。」


「じゃあ……あいつらにとって、俺たちは……ただの……。」


「素材だった。」


瑠宇が断言した。


「適合すれば“成功例”、拒絶すれば“廃棄物”。」


怒りとも、絶望ともつかない感情が、胸の奥からこみあげてくる。だがそのとき、真咲がふっと立ち上がった。


「……希望は、ある、」


三人の視線が集中した。


「こんな地獄みたいな記録の中でも、ひとつだけ、例外がある。“心が壊れても、優しさを捨てなかった被験体”がいた。誰よりも過酷な実験を乗り越えて、最後に仲間を庇った少女が。」


「アイ、だ。」


瑠宇が続けた。


「“1”の支配は、明確なルールに基づいている。術式の中核にあるのは“契約”……つまり、〈血〉による同化と従属の原理だ。やつの血を直接取り込んだ存在は、その瞬間から精神の一部が“1”の中枢に繋がれる。思考、記憶、感情――全てが監視と命令の下に置かれる。」


達臣が息をのむ。


「つまり、血を媒介に支配してるってことか……。」


瑠宇は頷く。


「そう。だからこそ、ほとんどの“被験者”は抗えない。けれど――」


彼の視線が鋭くなった。


「――アイだけは、“1の血”を受けていない。“成功例”である彼女は“吸血”による力の継承ではなく、術式的な〈移植〉で力を得た例外なんだ。血の契約を結んでいない。つまり、支配の回路が存在しない。」


「それって……最初から自由だったってことか?」


真生の声がかすれる。


「いや。自由じゃなかった。アイは、自分の意志で“1”に従っていたんだ。自分を救ってくれた者への恩義、あるいは生き残るための選択としてな。」


瑠宇は一瞬、言葉を飲み込むように視線を伏せた。


「けど……心までは、縛られていなかった。だから、お前と出会って変わった。支配じゃなく、選んだんだ。“1”から離れることを。」


達臣が低くつぶやいた。


「それって、すげぇことだよな……血でも術でもなく、あいつは“自分”で選んだんだ。」


「……ああ。だからこそ、今のアイは誰よりも強い。人間としての心を残している、唯一の存在だ。」


(……やっぱりアイは、人間のままで戦ってるんだ。)


その思いが、確かな決意へと変わっていくのを、真生は自覚していた。



薪がパチパチと音を立てる暖炉のそばで、達臣が手提げカバンをゴソゴソと漁っていた。


「ひとつ、確認させてくれ。……君は、なぜRe:Routeに“いた”んだ?」


言葉の主は瑠宇だった。

焚き火の灯りを背に、静かに達臣を見据えている。

その声は責めるようでも、疑うようでもない。ただ、真実を求める問いだった。


達臣は少しだけ目を細め、苦笑する。


「やっぱ聞くよな。それ。ま、そりゃそうだよな。お前らから見りゃ、俺、ただの不審者だもんな。

研修生でも職員でもない、けど施設の構造やら警備の死角やら、やたら詳しいヤツ……」


「その通りだ。」


と瑠宇は淡々と言う。


「そして、入る手段もなければ、君のような一般人が旧管理区画の奥にたどり着けるはずもない。……だとすれば、それを成した君には、何か“理由”がある。僕はそれが知りたい。」


沈黙の中、達臣はゆっくりと立ち上がると、ポケットから折れかけたIDカードを取り出して見せた。


「これ。作ったんだ。偽のID。研修生名簿にあった“欠席者”になりすまして、潜り込んだ。スキャン通したら案外イケた。

ネットに転がってる画像と、清継の記録にあったマップと、あとは勘。で、運が良かった。……いや、悪かったのかもな。

“奴”に見つかるまでは、順調だったんだけどな。」


瑠宇はそのIDカードに一瞥をくれると、静かに言った。


「本来なら、正門から入った時点で警報が作動する。……つまり、警備AIの監視網をすり抜けたか、あるいは……。」


「一時的に、止めた。」と達臣は言った。


「俺が入った日は、“改修作業”のタイミングと重なってたんだ。どうも旧区画で何かやってたらしくて、一部のセキュリティが手動管理だった。」


瑠宇はようやく小さく頷いた。


「……なるほど。偶然ではなく、狙っていたということか。となれば、君があそこにいたのは“無謀”ではなく“計画”だった。

ただひとつ、最後に問いたい。」


彼は一歩前に出る。


「――君は、“命を捨てる覚悟”で潜ったのか?」


その言葉に、空気が張りつめる。

達臣は、しばし視線を落とし、そしてゆっくりと笑った。

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