第5話 霞、新世界(フロンティア)へ出発
各都道府県にはそれぞれ異世界への入り口が複数点在している。現在、政府によって公式に確認済みの出入り口のすぐ前に設けられているのが内務省新世界出入域管理庁事務局である。
異世界への出入口の出現場所はバラバラである。市街地にある所もあれば、海岸沿いにある所、山奥の高速道路の脇道に出現したものなど様々だ。要は出現箇所が一定していないのだ。
10年前に突如として出現した異世界への入り口がどのような法則に基づいてそこに現れたのか、いまだはっきりしたことはわかっていない。何らかの原因、土地の歴史的要因、付近一帯の地質、人為的要因などがあるのではないかと調査する人間もいたが原因はわからなかった。なぜなら、過去の歴史に関する詳細な記録がないのだ。
ないというのは正確には嘘で、存在はするが見ることができないのである。
政府が新世界出現に先立つ20年以上前から、プライバシーの保護や歴史的に不適切な情報の不正流出を防ぐことを名目に、図書館や資料館などに所蔵されていた各地域の歴史に関する詳細な記録や書籍を内務省の管轄下に置いてすべて回収し、一般人が容易に閲覧することを不可能にしてしまったのだ。
新世界への出入り口の前にはどのような辺鄙な場所であってもすべて出入域管理庁の事務局が設けられている。各事務局には必ず充実した設備が整えられた病院並みの医務室が付属している。その目的は、新世界に赴く人々への健康管理と支援、各都道府県の新世界への出入り口の管理である。事務局には管轄する内務省職員と医務官が交代で勤務するほか、万が一の事故に対処するためとして、小銃で武装した国軍の1個小隊(約50名前後。公式発表では2線級部隊が警備にあたっているとされている)が駐屯している。
新世界へ出発する者は、その目的に関わらず必ずここで風土病関連の予防接種を受けることになっている。
「みなさん!これから新世界の風土病対策のための予防接種を行います。番号が呼ばれたら各自の指定の医務室へ入ってください」
内務省新世界出入域管理庁事務局2号棟医務室前ロビー。
最新の設備が整った真新しい施設の中にその場所はある。
私の名は三好霞。今日はいよいよ新世界への勉強合宿に出発する日である。
この日のために覚悟は決めてきた。土日を丸ごと使う新世界での勉強合宿は想像以上につらいと聞くけど、本気で食らいついていけば志望の難関大学も現役合格できる。お父さん、お母さんの恩に何としても報いたい。だから私は新世界での勉強に耐えて見せる。すごい頭を自分の力で身に付けて自立して見せる。
新世界には今も特有の風土病があるといわれている。これはそれを防ぐための直前に行われる予防接種だ。ワクチンの効力上、新世界入りの直前に接種するというのが決まりになっている。
「C36番、三好霞さん。第3医務室へ入ってください」
私の番だ。
律子が心配してくれていたけど、週に2日行くだけの勉強合宿じゃない。
つらいかもしれないけど頑張れば耐えられるわ。
これくらいクリアしないと志望校には受からないし、社会でも通用しないわ。
コンコンッ。
霞はわかっていながらも言いようのない緊張感を持ちながら医務室のドアをノックした。
「どうぞ」
ガチャッ。
「失礼します」
「こんにちは。どうぞ座って」
医務室には、物静かな雰囲気の女性医師が椅子に座っていた。首からかけた身分証明書によると、加藤朋子という名前のようだ。
机の上には霞のものと思われるカルテがあり、彼女はそれをペンで書きながら霞に淡々と話しかけた。
「三好霞さん。新星高校2年生。明日から開始される明星予備校大学入試対策新世界特別合宿へ参加のため、本日14時に新世界入りを予定。これで間違いないかしら」
「はい」
「あなたの詳細は既にパーソナルカードに登録されているから、私が聞くことは以上です。それではワクチン接種の準備をしますね」
あっけない。もっと深くいろんなことを聞かれるのかと思っていたけど、これでは拍子抜けだ。新世界は過去に起きた一件で出入域の管理が厳しくなり、彼女は単なる事務手続きのように、ただ淡々と作業をする。まるでワクチン接種をする自らの仕事のことしか考えていないかのようだ。
何分経っただろうか。医務室に入室したときに部屋の時計を見たら13時丁度。時刻は13時5分。14時に新世界に出発なのになんかワクチンの準備が遅い気がする。腕時計の秒針が動くことに気を取られる。何を緊張しているのか?何も失うものはないはずなのに何かこれ以上は入ってはいけないような?今はまだ引き返せる、ここから逃げろ!!別の自分がそんな世迷い事のようなことを必要に耳元で言ってくる気がしてならなかった。
「お待たせしました。それでは接種します」
そう言って女医の方は、私に腕をまくるよう指示し、アルコールで腕を消毒してからワクチンの注射器を箱から取り出した。ツンとするアルコール消毒の匂い。この匂いを嗅いだら誰でも病院のイメージ反射的に頭に出てくるほど小学校の時からなじみのある匂いだ。同時に注射の前に必ず鼻腔をつく匂いであるため、抜き差しならない恐怖と緊張が蘇ってくる匂いでもある。
これは新世界に行って勉強する前段階でしかない。何を緊張しているの私。たかが注射くらいで緊張する必要がないじゃないの!幼稚園児じゃあるまいし。
昔から注射は嫌いだった。でも今回は何か緊張の質が違う気がする。でも、それでも私は受ける。
グッ。
霞の右腕に注射器がすっと突き刺さる。音はない。ただ突き刺さって霞の体内にワクチンが注入されていくだけの光景。
注射器が霞の腕に刺さってから10秒としないうちにワクチンは霞の体の中に入った。
分かり切ったことだったが、実にあっけない。一体私は何に緊張していたのだろう?
私がそう思ったその直後、頭が貧血を起こした時みたいにクラッとした。
微妙な頭痛と吐き気が瞬間的にする。注射器が腕に刺さってワクチンが注入される光景をずっと見ていたからだろうか?
「大丈夫ですか?時々ワクチン接種後に瞬間的にしんどくなることがありますが、すぐ収まりますので」
女医は心配そうに、しかし相変わらず淡々とした事務手続きのような口調で霞に言った。
「大丈夫です。新世界関連のパンフレットの注意書きにもワクチン接種の際の注意事項にありましたから。すぐよくなると思います」
正直若干しんどい。でもこれでいよいよ新世界に行くことができる。さあ気を引き締めなおして行こう。
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