第3話 先輩の苦悩
「こんにちは。律子。今日はどうだった?」
「はい、いつもの通りの感じで、特に変わったことは。ただ、英語が少し難しくて。」
「大丈夫、わからないところは教えてあげるから心配しないで。律子は努力する子なんだから、悲観的にならず、常に良い方向に行くイメージをしてね」
この人は三好霞さん。私の先輩だ。
とても優しくて思いやりのある方で、先生方のみならず年齢を問わず慕われている。
中高一貫の私の学校は、文系クラブに関しては中高合同で取り組むシステムになっており、自分の学年だけではわからないことを多く教えてくれるので、理由もなくただ先輩の話を横で聞いているだけでとても面白い。
私が所属する茶道部の部長を務めており、女優のような美貌、成績は難関国公立を目指す頭脳を持つ才色兼備の人。その圧倒的な存在感は私のあこがれであり、特にその美しい髪の毛には同性の私が見てもドキッとしてしまう。
放課後の茶道部の部室。体育会系クラブの部室と私たち文系クラブの部室は距離が離れている。私たちの部室とその周辺はとてものどかな時間が流れていて、遠くのグラウンドから掛け声が少し聞こえるくらいだ。
この人の何よりの魅力は、周りの人たちを良い方向に導いてくれるところだ。
常に人をプラスの方に引っ張っていってくれる存在で、この人がいると部屋の雰囲気がとても穏やかになる。
部室の台所にはいつも水滴一つなくきれいに片付けられており、私もほかの部員も自然に気持ちが穏やかになる。そのままの表現で言えば、場に清潔感がみなぎるのだ。
「ねえ、律子さん」
「はい、霞先輩。何でしょう?」
先輩が神妙な面持ちでこちらを見る。
「あなたは新世界で勉強すると劇的に成績が上がるという話についてどう思う?」
彼女はそう言いながら。カバンの中から1枚のパンフレットを取り出した。
[金星予備校国公立現役合格コース:新世界集中合宿についての案内]
「これって難関大学への現役合格を目指す人がよく受講しているっていう予備校主催の合宿ですよね?」
「そう、これについて律子さんはどう思うかなって?」
「そういえば先輩は再来年受験ですよね?」
先輩は高校2年生。高校でも難関国公立を目指すだけあって勉強のできるコースでトップクラスの成績を取っていて、志望校への現役合格も間違いなしと先生方から言われている。それなのになぜか勉強の事になると彼女は時折不安な表情を見せる。
「大丈夫ですよ。先輩はすごく勉強できますし、間違いなく志望校に現役合格できますよ!」
「そう、そうね・・・」
「どうしたんですか?」
「律子はまだ知らないと思うけど最近の大学入試はとても難しくなっているのよ。かつては少子化が進んで大学全入時代に突入するといわれていたけど、それは失礼だけどランクにも入らないところの話で、有名な大学は却って質の高い学生を得ようと厳しくなっているのよ。大学自体、この10年間で文部科学省が大学に求める水準を急激に厳格にしたことによってかなり淘汰されたわ」
「合格するために私も中学の時からずっと頑張ってきたけど、今の予備校でのテストでも、私の目指す志望校には正直厳しいと言われたわ」
「霞先輩ほどの人でもですか?」
霞先輩は学校全体でもトップクラスの人。私の学校は飛び切りの進学校ではないものの、毎年難関大にも進学する人が一定以上いる中堅校で、先輩ほどの実力なら十分大丈夫だと思うんだけど?
「律子とはよく話をするから承知していると思うけど、ここ十年の間に社会は大きく変わったわ。AIをはじめとしたIT技術の急激な進歩であらゆるものがほとんど自動化されて人が働く必要が無くなったの。私が小さいときに母に近所のスーパーに一緒に行ったときはまだ人がレジでいたけど、今は完全に無人で人はいない」
「ううん、それは人が働かなくてよくなったのではなくて、世の中で要求される知識、技術、技能すべてがかつてないほど高く要求されるようになったことで、一定の努力さえすればついていける職場が少なくなっただけ」
「かえって今は、かつてないほど高いレベルのスキルをマルチに身に付ける努力をし続けた人だけが、昔で言う普通の人の暮らしを享受できる時代になったと私は分析しているの」
「今の世の中の現場で求められるものは想像以上に高い。べらぼうといっても過言じゃないわ。だから私は志望の大学に何としても入って、自立したいの。予備校にも行かせてもらってるし、今の時代、両親にこれ以上のお金の負担をかけさせたくないから」
「でも、予備校で勉強し始めて愕然としたわ。正直勉強には真剣に取り組んできたから十分いけるって思ってた。でも、そこには私なんか話にならないくらい勉強ができる人がゴロゴロいて、その人たちですら私が目指しているところにいけるかどうかわからないんだって」
「それに私は予備校の先生から言われたの。最近の難関大学は、ほぼ新世界での集中合宿で成績を劇的に伸ばしている人たちばかりが合格者に名を連ねているんだって」
「それって何か特別なことがあるんですか?」
「律子も知ってることだと思うけど、新世界には人間の実力を劇的に向上させる磁場があるの。そこで勉強すると実力が普通の勉強よりもはるかに向上するらしいのよ。」
「それは知ってます。父が買ってくるビジネス誌にも受験事情の特集で頻繁に取り上げられていますし、テレビで受験評論家の人とかもよく絶賛してますよね。新世代の受験生の在り方として」
「でもそれって、なんかずるくないですか?受験にせよスポーツにせよ自分の努力で成し遂げてこそ意味があるもののはずなのに・・・。何か違法ドーピングみたいな感じがします」
律子が怪訝な顔をして言うと、霞はこう答えた。
「私も律子と同意見よ。こんな訳のわからない能力向上的なことって怪しいと思う。でも最近はそうも言えなくなってきているのよ」
「学校も世間も偏差値や点数でしか評価してもらえないのが現実なの。私は小学校の時、まだ勉強が苦手で、でも工作は得意だったからまあいいやって思っていた時に先生にはっきり言われたの。学校では工作の出来よりもお勉強の点数でしか評価できないって。霞さんは何か勘違いしているんじゃないかって。私はとても傷ついたわ。」
「そんなことが・・・」
「中学まではそれでも将来について漠然とした感じだったけど、その中学で私は世の中の現実の一端を味わされたの」
「私が前にいた学校では、いくら学校の勉強ができても学校はなぜかそれを1ランク下の評価しかしてくれない。逆に外部の試験で好成績を上げる、難関大学に合格したらもろ手を挙げて拍手する。学校では中身のある外部の試験対策なんかまったくしてくれなかったのに。学校では外部で通用する勉強をさせず自己責任で勉強しろ、でも外部の試験で結果を出したら高く評価される。それでいて学校内の試験でいくら頑張っても評価されない。強制的に心を腐らせられるような耐え難い苦痛の日々。もうあんな学校の事は考えたくないわ」
嫌悪に満ちた表情。しかし、一瞬で彼女は強い決意と覚悟をした目に変わった。
「だから私は決意したの。難関大学に合格して、誰も馬鹿にできないキャリアを築くって。元々勉強は苦手だったけど、それでも何とかしてここまで来たの。」
「私の家はそれほど裕福じゃない。母も共働きで私をこうして学校に行かせてくれているの。それに母から聞くところ、女性というだけで昇進や昇給が低く抑えられているのがこの時代にもかかわらず現実にあるっていう話も聞いている。だから、今までの分も含めて両親に恩返しして、人として誰からも馬鹿にされない地位を持ちたいの」
霞先輩はこの学校の中学からの進学組ではなく、外部の中学出身だ。なんでもその学校の肌合いが嫌いで高校から私たちの学校に来たとのこと。
「それに新世界に行って勉強すればみんな成績が上がるわけじゃないわ。新世界の磁場は強い意志がないと耐えきれず、慣れない人は精神的に疲弊するだけで学力向上はできないと予備校の先生は説明していた。会社の研修や職業安定局の特別訓練課程も同じ原理を用いて新世界でビジネススキルの訓練をするけど、大人と違って学生は精神的な負担が大きいということ、学習する内容も新世界の磁場に耐えてずば抜けた頭脳を手にできた人だけがついていける内容。だから学生で志願する人は学校と予備校のそれぞれで上位10%以内の成績を収めた人で、かつ自らの意志と親権者の同意を得た人しか志願できないの」
「そしてビジネス誌が調べた受験の統計を見ると、今は実質的に新世界での勉強に耐えた人でないと難関に合格することはできなくなってきているの。いつの間にか雑誌で紹介されている有名人や大企業の社長・幹部とかも、大体のところ新世界での教育課程をどこかで突破している人ばかりになったわ」
「両親にもそのことを相談したら、猛反対されたわ。でも私は押し切ったの。こんなことを聞くのはおかしいとわかっているけど、律子はどう思う?」
霞の話を聞いていく中で、律子はどう表現したらいいのかわからない嫌な感じがした。
何か目に見えない壁が次から次へとできているのではないか?
霞先輩の志に一点の曇りもない。それどころか透徹した覚悟がある。私から言うべき文句は何もない。
ない?
本当にそうなの?
それは私の本心なの?
本当はここで霞先輩を止めるべきではないの?
「私は・・・先輩の意志の通りにするべきだと思います・・・」
言えなかった。
先輩のまっすぐな目を見ると、先輩の言った過去の悔しさ、世の中に対する分析が生々しく感じられて、止めましょうとは言えなかった。
だから止められなかった。
場の空気を読むことが大事と様々な場面で言われてきたこともこの結論が出てきた理由の一つかもしれない。
でも、私はこの時に先輩を止めておくべきだったと、この後後悔することになる。
今まで常識とされていたものを信じていると、恐ろしい災いが一方的に降りかかってくるという事実を目の当たりにすることで。
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