Trace.18 Blade Awakening


 “My dearest Andy awaits your contest with bated breath. Thus, you must crave victory with unyielding fervor, darling.”


 — Noel Josie ( Noel Youzhny ) —


 愛しのアンディがあなたとの対戦を待っているの。だから、あなたはひたすらに勝利を渇望なさい。


 — ノエル・ヨーズニー —



 トルコ共和国 イスタンブール


 イスタンブール空港


 ラケットが破損し、練習すらままならなくなった影村。桃谷はジャックの助言を聞き入れ、影村と共に彼を一度日本へと帰国させることに決める。彼も帰国に関して抵抗はなかった。


 彼はイスタンブールを飛び立つ前、両親へ成田国際空港経由で帰国することを連絡した。桃谷も自身の派遣元の会社に抗議をするため、企画する必要があると考える。


 出国後の飛行機の中、桃谷はノートパソコンで影村の身体機能についてのデータをまとめた。希少価値の高い、常人よりも発達したインナーマッスルと、柔軟な筋肉が生み出すラケットスイング。


 彼女は眼鏡を反射で光らせながら仕事に没入している。前回のクライアントとは真逆で、一切騒がない寡黙でおとなしい影村の隣。そのせいか仕事はかなり捗ったようだ。影村はまるで飼い慣らされた大型犬のようにのっそりと桃谷のパソコンを覗く。


 「影村君。ジャック・ロブロドと練習した時のフォアハンドストロークについて、情報を水谷君に送ったわ。あなたの使っていたラケット。ブレードランナーだけど、一見トップヘヴィ寄りでハードヒッター向けだけど、その実、本来はコントロール用に作られた代物よ。」


 「......。」


 「サーブの時にわかったわ。そして驚いた。あなた、サーブを打つ時のために、あのラケットを使っていたのね。」


 「......あぁ。」


 「わかったわ。情報を水谷君に送る。(ジャックといい、影村君といいなんてでたらめな身体能力......体格はK-1選手並み。でも俊敏性が極めて高い。相当特殊なトレーニング法を実践しているのね。)」


 桃谷の質問に、影村は静かに答える。次に桃谷は彼のフィジカル面についての分析結果を口にする。ジャック戦で録画されたフォアハンド、バックハンド、コートを駆ける時の急な体の切り返しの動画を再生した。


 「ここよ。」


 そして彼女はノートパソコンの光に眼鏡を反射させながら、影村が連続で10回目のフォアハンドストロークを打ち終わったところで動画を止め、彼の背中から肩そして上腕三頭筋の映った画面を持っていたペンでなぞる。


 「自重トレーニングの限界ね。背中・脚・三頭筋のアイソレーションについて効率的なトレーニングが必要ね。時間がないわ。徹底的にメニューを考えないといけないわ。動きが鈍重になっている。ジャックと比べて筋持久力の低下がみられるわ。」


 影村は彼女の言葉に真剣な顔で耳を傾ける。桃谷は画面を食い入るように見つめる影村を見て、やっと理想のクライアントができたのだという、ある種の仕事的な達成感に満たされた。


 日本国 愛知県名古屋市南区某所


 ボルテクス・スポーツ社 ラボ


 影村のラケット開発は第3段階に入るも技術的な壁に激突していた。技術者たちは頭を抱え、本業務と掛け持ちの交代制でこの問題にぶつかっていた。


 開発は野高の持つロストテクノロジーともいえる、木製ラケットの型を職人の感覚で削り、それを3Dスキャンで取込み、CADソフトで修正作図。そして最新の材料をそれに当てはめ、 剛性・ねじれ・振動をFEA解析により、コンピュータ上で製品の物理的な挙動を予測する。いわば現代技術と古い技術のハイブリッド方式で進められた。


 「ヨーズニーの若いころは、こうして木を削るラケットを試打してたんだ。調整していって最終的にその時代の材料にしていった。」


 野高はひたすらに木を削ってモデルの型となるラケットのウェイト調整。白石は物理計算からラケットが振られてボールにインパクトを起こすシミュレーション映像と格闘していた。


 パソコンの画面には影村のフォアハンドのスイング軌道上で、ラケットがどのような衝撃を捉え、どのように力が伝達し、そして分散するのかが3D映像化されていた。ここで影村のスイングに合わせて振られたラケットに、高い捻じれが発生したのだ。


 これが起きた時、人体が生み出す力がラケットに伝達され、そしてラケット面にボールが当たる際に発生する力が逃げてしまう。ラケット開発は最大の難所へと差し掛かる。


 「ひえぇ......サーブは高剛性モールドでねじれ抑えたけど…フォアは打点が前すぎる。 フレームが45度捻じれて、反発効率が8%落ちてる。」


 「先輩。さっき指示貰った、グラファイトとカーボン繊維でごりっごりに編み込みしたミックス構造......同じ結果でした。あと、T1000カーボン+グラファイト結晶強化樹脂で±45°補強しましたが、肘への衝撃が1.4倍。でら泡吹くレベルっすよ。」


 「おいおい、泡吹くのは早いぞ。健次郎さん。そっちは?」


 白石は寡黙に型枠のモデルを削ってウェイトバランスを調整している。彼は一旦作業にキリが付くと、後ろに置いてあった椅子に腰を掛けて「あ゛ー」と疲労を見せた。


 「ヨーズニーよりパワー馬鹿。それでいてサーブは繊細なじゃじゃ馬......ははっ、何なんだあの影村って選手は。」


 座って愚痴をこぼすも、今の彼は若いころのように目に光をともした職人の顔をしていた。白石は野高の生き生きした姿を見てうれしさから笑みを見せた。


 「あぁぁぁ!3Dシミュレート!フォアのインパクトでフレームが45度捻じれ、弦面が第2次振動モードで、波打つように変形からの衝撃エネルギーの28%がねじれに逃げてんじゃねぇかぁぁぁ!」


 「この選手のフォアのスイングに耐えられる材料があったら教えてくれよぉ......もう.......技術者殺しやん。」


 ラボは混乱をきたしていた。白石と野高は目の下にクマができている。水谷も机の上で頭を抱えていた。影村との約束を守るという責任感と重圧。“5人の天才”という幻想から自分の目を覚まさせてくれた恩人。そんな影村に恩を返せないもどかしさにこぶしを握る。


 「でらやべぇ......。」


 水谷はカレンダーのマスに丸印が打たれている日付を見て、約束を守れない絶望に顔を歪める。ふと彼の机の上に置かれたスマートフォンが鳴った。


 「ユッキー......。」


 水谷はスマートフォンを手に取って前橋からかかってきた電話に出た。少々疲れ気味の前橋の声が彼の耳に入る。


 「もしもし。」


 「あぁ、修栄?そっちも疲れてるようだな。やっとプロジェクトが始まるってのに壁にぶつかっちまったよ。」


 「こっちもだ。」


 「まさか、日本テニス連盟協会の企業連盟が、外務省の天下り巻き込んで、大使館経由で影村の邪魔をしていたなんてな。今、彼の国籍変更先のプランを練ってるところだが、これがまた骨が折れるんだ。」

 

 「ユッキーも大変そうだな。こっちは海将のフォアハンドとサーブがでぇら出鱈目すぎて技術的な壁にぶち当たっとる。もうかれこれ2週間弱根詰めっぱなしよ。最初のシミュレーションでラケットぶち折れるし。やっぱあいつバケモンだわ。」


 「ハハ......互いにプロジェクトが成功したら、ホテルの宴会場でも取って祝賀しようぜ。」


 「いいなそれ。世界の長谷岩自動車の財力で頼むわ。ハハハ!」


 水谷は前橋としばらく話した後に電話を切った。スマートフォンを切った彼は大きくため息をつき、ふとラボの事務所の棚に置かれた写真とモニュメントを目にする。


 「......祝賀か。」


 水谷は何かに気が付く。目にしたモニュメントと長谷岩自動車社長とのツーショットの記念写真。彼の記憶の全てがつながってゆく。何かを閃いた興奮に手は震え、鼓動が高鳴り、瞳は揺らいだ。


 “本日は、長谷岩自動車F-1参入25周年記念シンポジウムにご参加いただき、誠にありがとうございます。本日のシンポジウムでは、軽量新素材の未来を切り開く議論が繰り広げられ、F-1の情熱と技術革新の勢いに押されるような、素晴らしい一日となりました。この25年間、皆様のご支援と挑戦の積み重ねが、長谷岩自動車をここまで導いてまいりました。心より感謝申し上げます。”


 水谷は記憶の中から出た大きなヒントに心を震わせた。そして事務所の棚の上に置かれたF-1のフレーム用に開発された新素材のサンプルを手に取る。


 「こんなにも神様にでら感謝した日があったか......あぁ、海将の言葉以来だ。」


 彼の言葉にラボのスタッフたちが注目する。スタッフたちは水谷の手に持たれた新素材のサンプルを目にすると燦然と目を輝かせ、一筋の希望に賭ける興奮に胸を高ぶらせた。

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