第15話

健太は拠点となる扉のある丘から南へと足を進めた。以前、北には湖があり、東は起伏のある草原地帯だった。南には、鬱蒼とした森が広がっている。木々の密度は高く、昼間でも日光が遮られるような場所だ。


森の入り口に立った瞬間、空気が変わった。


「……湿ってるな」


土の匂いが濃い。湿気を含んだ風が木々の間を吹き抜け、葉がざわめく。小動物の気配もあるが、まだ姿は見えない。


健太は慎重に足を進めた。落ち葉を踏みしめるたびに、音が響く。スニーカーをクラフトで作った軽靴に履き替えたのは正解だった。足音は最小限に抑えられ、動きやすさも抜群だった。


「よし……とりあえず、食えそうなもんを探すか」


まずは地面を見回し、目についた草やキノコを手に取り、鑑定を試す。


【鑑定結果】

名称:毒喰草(どくくいぐさ)

属性:植物(有毒)

効果:摂取すると軽度の吐き気と下痢を引き起こす。


「……アウト」


次。


【鑑定結果】

名称:青斑茸(せいはんたけ)

属性:菌類(猛毒)

効果:摂取後、5分以内に神経麻痺を引き起こす。致死性あり。


「ふざけんなよ……!」


一つ、また一つ。見つける植物やキノコのほとんどが毒性を持っていた。麻痺、下痢、幻覚。まるでこの森全体が人間を拒絶しているかのようだ。


「なんで食えそうなもんが一つもねぇんだよ……!」


苛立ちがこみ上げる。腹が減っているのに、何一つ口にできない。人間としての限界が近づいているのを肌で感じる。


――森を歩き始めてから、すでに三十分は経っていた。


どこもかしこも鬱蒼と茂る木々。枝葉が空を遮り、陽の光もほとんど届かない。苔むした倒木や、乾いた草の匂いが鼻をつく。鑑定を繰り返しても出てくるのは「毒性あり」「接種注意」「麻痺効果」など、胃袋には到底入れられない草やキノコばかりだった。


「……もうちょい、マシなもんないのかよ……」


苛立ちと空腹で、健太の顔もだんだんと険しくなっていく。


だがそのとき、ふと視界の先に違和感を覚えた。


茂みの切れ間に、ぽっかりと明るい空間が広がっている。森の中には珍しい、ひらけた草地だった。陽光が差し込み、小さな花が揺れている。地面には苔もなく、踏みしめやすい土がむき出しになっている場所すらあった。


「……なんか、雰囲気違うな」


試しに、その草地の縁に立って【鑑定】スキルを発動してみる。


——


【名称】安全な採取地(南の森・第一層)

【状態】浄化領域/モンスター出現:なし

【特性】自然魔素の流れにより、一定の平穏状態が維持されている。特定条件下で一時的にモンスターが近寄らない空間が形成される。

【備考】採取・休憩に適しています。


——


「おお……安全ってマジで書いてある。出現率、なし……」


異世界の“安全”にどれほど信頼を置いていいものか、若干の不安はあったが、この場にいるだけで妙に心が落ち着くのは確かだった。体の奥に溜まっていた疲労が、ほんの少し緩和されるような感覚がある。


「……休憩ポイント、みたいなもんか。ありがたい」



——



さらに奥へ、さらに森の中心部へと足を踏み入れる。




次第に、木々の密度が増し、光がほとんど差し込まなくなる。苔が地面を覆い、空気は冷たく、ひんやりとしていた。




「……?」


ふと、視界の先に違和感を覚えた。


木々の間をすり抜けた先に、ぽっかりと開けた空間がある。そこだけ、まるで別世界のように光が差し込んでいた。一本の大木が中心に立ち、根元のあたりに――


いた。


「……鹿?」


一瞬、目を疑った。そこにいたのは、異様なほど大きな鹿だった。いや、もはや“獣”と呼ぶべきかもしれない。


体高は健太の肩ほどもあり、角は滑らかに湾曲し、枝分かれした銀のような色をしている。何より目を引いたのはその毛並みだった。全身が、まるで雪の結晶を纏ったかのように、透き通った白に包まれている。風にそよぐたびに、光を反射してきらめいていた。


幻想的だった。神獣、といっても過言ではない。動くたびに空気が静まり、周囲の生き物も息をひそめているかのようだった。


だが――健太は、見惚れている場合ではなかった。


「……うまそう、だな」


空腹に脳がやられていた。理性が鈍り、本能が囁く。


(あれを、倒せば……。肉が、手に入る……!)


手元にはクラフトナイフがある。牙でできた、あの武器なら、あるいは。


彼はそっと姿勢を低くし、木の陰に身を隠しながら近づいた。鹿は、こちらに気づいていない。


(いける。背後をとって、一気に――)


すでに判断力が麻痺していた。慎重さよりも、空腹が勝った。


木の影から飛び出す。


「うおおおおおっ!!」


叫び声とともに、健太は鹿に襲いかかった。


その瞬間だった。


――カッ


空気が、一瞬で張り詰めた。


鹿がこちらを向く。目が合った。蒼白の瞳。その奥に宿るものを、健太は見た。


(やばい……)


その直後、鹿の角が光を帯びた。


「っ……!?」


そして――


次の瞬間には、健太の視界がぐるりと反転していた。








地面に叩きつけられた衝撃と共に、肺の中の空気が一気に抜けた。


「ぐはっ……!」


何が起きたのか分からなかった。ただ、飛びかかったはずの自分が、逆に吹き飛ばされたことだけは確かだった。


(なんだ、今の……? 見えなかった……)


鹿は動いていないように見えた。だが実際は、目にも映らない速さで、角を振るったのだ。距離を取ったと思った瞬間には、もう健太は数メートル先の木に背中を打ち付けていた。


頭が揺れる。目の前がぐにゃりと歪んだ。


(まずい……スキル、ナイフ……いや、……)


まともに思考がまとまらない。だが、体が勝手にその場所から逃げ出していた。


鹿は、無言でこちらを見据えていた。動かず、吠えもせず、ただ淡々と殺意の気配を放つ。


足が震える。息がうまくできない。だが、逃げなければ、本当に殺される。


「っ……うぅおおおお!」


咆哮のような叫びを無理やり絞り出し、健太は転がるようにして地面を蹴った。木々の間を、まるで四つん這いのように駆ける。手足を上手く動かせない。何度も足がもつれ、転びそうになりながら、それでも走る。


「はっ……はっ……っくそ……!」


耳元で風が切れる音がした。振り返らなくてもわかる。あの鹿は――追ってきている。


「あと、少し……っ!」


視界の隅に見慣れた草地が見えた。この森に入る前、何気なく鑑定した“安全な採取地”。あの場所だけは、敵対モンスターが近づかないという判定があった。


息を殺し、よろけながら草地に飛び込む。直後、鹿の気配がふっと消えた。追ってこない。森の結界のようなものが、どうにか健太を守ってくれたのだ。


倒れ込みながら、絞り出すように呟く。


「……帰還……」


世界が光に包まれ、次の瞬間には、四畳半の部屋に転がっていた。


「っは……はぁっ……!」


地面に手をつきながら、何度も深呼吸する。心臓が破裂しそうなほど打ち鳴らされていた。背中には痺れるような痛みが残り、膝からは血がにじんでいる。


「あれ……何だったんだよ……」


透き通るような白い毛、鋭すぎる角、感情のない瞳。そして――


問答無用の力。


「……完全に、格が違ったな……」


自分が、異世界の“自然”を甘く見ていたことを痛感する。食料を得るために奥地へ踏み込むという判断は、命を捨てる行為だったのかもしれない。


視界の端に、ふっと青白い光が灯った。意識の奥深くに直接響くような音と共に、頭の中にシステムメッセージが流れ込んでくる。


《レベルアップ!》

《格上との戦闘ボーナス発動》

《レベルが6→11に上昇しました》


「え……?」


今にも崩れそうな体に、じわじわと活力が戻ってくるのが分かる。激痛だった背中の鈍痛が少し和らぎ、膝の血もじきに滲まなくなる。


HPバーが視界に現れ、数値が回復していく。


【HP:9/162 → 93/198】


「マジかよ……」


レベルが上がることで最大HPも増え、それに伴って自動的にある程度回復もしているようだった。まさに生き延びたご褒美だ。てかHP残り9だったのかよ。


「……助かった、のか。ギリギリで……」


呟きながら、その場に座り込む。全身汗だくだ。恐怖と疲労、そしてほんの少しの安堵が、胸の奥で混ざり合っていた。


これが、異世界で生きるということなのか。飢え、傷つき、死にかけて、それでも得られるのは、わずかな経験とレベルだけ。


「……生きてるだけ、マシだよな」


健太はその場で横になり、ぼんやりと天井を見上げた。思考はまだまとまらない。ただ、確実にひとつだけ分かることがある。


あの鹿は、次に出会っても、まだ勝てない。


——————————————


【名前】ケンタ

【種族】人間

【職業】無職

【レベル】11

【HP】93/198(MAX:198)

【MP】63/75(MAX:75)

【ATK(攻撃力)】42

【DEF(防御力)】31

【INT(知力)】26

【スキル】

・鑑定(初級)

・帰還(任意発動)

・クラフト(中級)

・???(NEW! ※ロック状態)

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