秘密の双眼鏡
夏川まこと
第1話
茶色の木目が俺を見下ろしている。その木目を目で上の方に追いかけると、それは部屋の壁に行き着き、さらにその壁を目で追って床の方に向けていくと穴の開いている押し入れの襖が見える。俺はその襖を見飽きていて、目が覚めてそれを見るたびにうんざりするような気分になるのだが、今さら布団の位置を変えるのも怠いしで、結局は毎日うんざりする気分になることを許容していた。襖の横の鼠色の壁際に備え付けられている旧型の小さなテレビは、その赤い色で俺の目を覚ますかのようにそこに鎮座していて、俺もそのテレビを見るとまた詰まらない今日が始まると言う気分になり、横たわっているこの三十を過ぎた身体を起こそうかという気持ちが起こるのであった。
身体を起こし、しわくちゃの白い布団の上であぐらをかくと、枕もとに置いていたスマートフォンを手に取って今日の日付を確認する。十二月二日。今日は月曜だから俺は仕事に行くことになっているが、それまではまだ時間があり、無駄に早起きなこの性分は、俺の数少ない長所であった。俺はテレビの電源を付けて早朝のニュースを見ることにしたのだが、ニュースキャスターはまた爽やかそうな顔をしていて、一体、この人種と俺のような男とでは、食べてるものからして違うんだという陰鬱な気分にさせられる。だが、実際は別に大したものは食べていないんだろうと、どうせ食パンにバターでも塗ってインスタントコーヒーで流し込んでいるのだろうと推測するが、そうなるとこの爽やかな顔や髪型、服装などはどこからやってくるのかという疑問が起こり、きっとそれは他者の力を借りたもので自分にはないものなんだと諦めの気持ちに心を移行させるのであった。
「……今日はグローバル資本主義の限界、というテーマで識者に集まってもらいました」
早朝からずいぶんと重いテーマの論議をやるものだと俺はニュースを見て思ったのだが、資本主義はともかくグローバル資本主義とは一体何なのかという自分の知識の境界を感じるに至った。
「……正規雇用制度が廃止された現代の日本において、グローバル資本主義における雇用の流動性の確保のために増加した非正規雇用者ですが、これにより社会不安が増大し、結果として今の日本の治安の乱れが引き起こされたと見る専門家の方の意見は多く……」
正規雇用という言葉が懐かしく感じられたが、その代わり非正規雇用という言葉はすっかり俺の中での市民権を得ていて、当たり前のようにこの口の裏側にいつでも出られるように鎮座しているのだが、今さらこの日本でそんなことを議論する意味が果たしてあるのかという気になった俺は、キッチンで沸かしたお湯でインスタントコーヒーを作りながら、そのキャスターの言葉に耳を傾けている。
「……さらに長年続いている国の財源不足のため、年金と生活保護制度が廃止された現代の日本では、街中にホームレスが増えて大きな社会問題となっています。これについてはどうでしょうか……」
「……はい。国が国民を保護してくれなくなった現代の日本においては、民間レベルの助け合いが必要とされています。余力のある企業が生活困窮者を助ける、例えば炊き出しや子供食堂、衣服の譲渡や生活必需品の供給、こういった活動をされている企業は多く存在しますが、それでもまだ十分ではありません……」
湯を注いだカップラーメンの蓋の上に箸を置いてコーヒーをすする俺は、その専門家という肩書を持っている男の話を聞いているのだが、企業が雇用の流動化を促進したくせに、それによって起こった社会不安に対処している企業がそれほど多くないというのは、無慈悲な資本主義の片鱗を感じさせるもので、それもここ数年は見飽きたものであった。
「……さらに現代の日本では少子高齢化が深刻なレベルに達しており、長らくこれに未対応だった国の責任が問われる事態になっています。子供の出生数は前年度比で十パーセント減少し、もはや取り返しのつかないレベルにまで落ち込んでいます……」
三十を過ぎた俺は子供がいても不思議な年齢ではなかったが、倉庫のピッキングという非正規雇用の身では子供を養えるはずもないのは自明で、さらにパートナーもいない自分にとっては、子供という言葉はどこか異国のものであるかのような錯覚にも陥るのであったが、そのことに別段むなしさとか怒りとかを感じることもなく、今の時代ではごくごく普通のことだという諦めの認識でしかなかった。
今の日本はお世辞にも豊かな国とは言えないというのは、今を生きている日本人なら誰しも思う所ではあると思うのだが、テレビやネットのメディアには日本の素晴らしさをとくとくと説いているコメンテーターが頻出していて、明らかな庶民とメディアの感覚のズレがここのところ著しくなっているような気がしていた。かといって俺が感じるこのズレも、誰かと議論したわけでもなく、あくまで俺の中で感じていることでしかないのであり、たまにそれに同調するかのような人間は動画の中で現れるも、それと議論を深めることもできず、ただ宙ぶらりんとなっている様であった。
俺はスマホで昨日のニュースを検索する。すると俺の名前が出てきた。こんな小さい事件がまさかネットニュースに載るとは世の中はわからないものだと、俺はそれを見ながらカップラーメンをすすると、深いため息を吐くのであった。
カップラーメンを食べ終えると、時計を見て俺は出勤の準備を始める。薄暗い部屋の中は散らかっていて、俺に声をかける者はおらず、コタツの上に置いてある小さなルリビタキのぬいぐるみだけが、俺を見送ってくれた。
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