良子、やばい子 Ⅴ

 良子の狂気が収まらない。

 他のタコ脚が器用に椅子を引き、アロンを捕らえたものがぬるりと移動、優しくそこに座らせる。着席したのは、廊下側の後ろから二列目の席だった。

 良子は、今度はタコ脚を使わず、自分の手でアロンの机をどかし、前の席を引いて自らも着席した。アロンと向き合う格好を取った。

「……これがどういう状況なのか分からない」

「フッ……フフフ」

 アロンはもう苦笑する他なかった。

「こいつらを仕舞ってもらえないかな。水平線の魔物ビッグパスについては、ドロシーを交えて腹を割って話そう」

「私にとって優位な展開にはなり得ませんね」

「ドロシーを警戒しているから? それなら大丈夫。ドロシーは君に何もしないし、不穏になれば僕が止める」

「アロン君、そういうことではないのです」

 困った眉で首を振る良子。

「それなら共闘を――」

「アロン君、私が卍田市に赴いたのは、政府に許可を得て、現地協力者が信用できて、私とその方の支援のみで水平線の魔物ビッグパスの討伐が可能だと推測できたからなのです」

「協力者って、実真先生?」

「ええ」

「さっきも言っていたね。ドロシーに戦わせては却って危険だって」

「そうです」

「実真先生はオッケーなの?」

 深く頷く良子。

「だったら教えてもらえないかな。一体どんな手段で実真先生と良子さんは――」

「うあああああっ!」

 突如の絶叫に、アロンは心臓が飛び出そうになった。

「何で⁉」

 良子は椅子を倒し、アロンの頬よりも上、銀髪を容赦なく鷲掴みにした。

(近っ⁉ 怖っ⁉ 良い香りだけど!)

 零れるくらい目蓋を広げる良子。鼻息も激しい。目と鼻の先、二人の鼻尖がかすり、唇さえも重なりかける。

「僕のどれが君をそうしているんだ!」

「名前!」

「名前⁉」

 怯んで閉じた目蓋を慎重に開けると、そこに大和撫子はもうおらず、赤い鬼のみに視界が占領されていた。

「良子! と呼んでくれるようになりましたね! ずっと待ち焦がれていたのですよ! 私ばかりアロン君、アロン君、アロン君……ずっとずっと歯がゆかったのです!」

 かつてない類の恐怖体験を散々させられてきたというのに、今回は単純に鼓膜をやられそうになるアロン。

「下の名前で呼んでほしいならそう言ってくれれば……あっ、もう遅いか」

 涼しいとも暑いとも感じられない鼻息を浴びて、再び諦めの心に戻る。話し合いに応じてくれるかもしれないと期待したが、誤解だったよう。

「覚えていますか? 今朝、熊岡先生に紹介していただいた際、アロン君のことをずっと見続けていたことを」

「あれ今朝の話かぁ」

「ビビッと! 雷にでも撃たれた気分でした。わっ、美青年! かつてない衝動! 実真先生から聞いた通り、紳士的な男の子……あーっ、もう! 弄びたい! ドロシーさんの相棒がアロン君で良かった! これは運命です! もう我慢出来ない……今日中に辱めなくては……という感じだったのです」

 アロンも雷に撃たれたい気分だった。

 今こそが本当の絶体絶命。もう過去の生活には戻れないのだと悟り、ドロシーを甘やかしてきたこれまでがよぎり、今では自分こそドロシーの胸で甘えたい思いとなっていた。

「アロン君と出会って、あのように空気の読めない私を完璧にフォローしてくれて、私はどうかしてしまったのです」

「多分だけど君は元からどうかして――」

「アロン君が言ってくれたように、影歩む正義の味方として、必ず水平線の悪魔ビッグパスを仕留める意志で卍田市に来たのに。本当に……本当にあなたと良好な関係を築いた上で説得するため、実真先生と連携するためにも好都合だから転校生を装っただけなのですよ? それなのに……ああっ!」

 鷲掴みの力が強まり、アロンは苦痛を声に出す。それもまた良子を昂ぶらせるものと分かっていても我慢できない。タコ脚に捕まり、逆さ吊りにさせられていた方がマシだったのだ。

「……君はもう正義の味方なんかじゃない。やっていることは完全に小悪党だ」

「素敵、アロン君……。ここに来てまだ言い返せるなんて」

 溶けて崩れそうな相貌。アロンは目を逸らさなかった。……逸らす先がなかった。

「いや、考えてみれば驚くことでもないのかもしれない。ごめん。僕はもう君の劣情に怯むことはない」

「……何ですって?」

 興を削ぐ物言いに、鷲掴みは解かずも一旦顔を離す良子。

「だってそうでしょ? ドロシーみたいに世のため、人のためにタコ脚を狩って、僕やみんなを守ることのできる悪魔だっているんだから、それなら君のような正義の変態がいてもおかしくない」

「正義の変態⁉」

「君が僕をどうするのか、そんなことはどうだっていい。もう付き合い切れないからね。だけど、これだけは言っておく。いくら体を弄ばれても、僕の心は決して君の物にはならない!」

 男女二人きりの夜の教室、響く拒絶の意志。

 掴む力が弱まり、反射的に良子の顔色を窺うと……。

(やっぱり)


 ――他の女の子が相手ならまだしも、あの子相手に紳士の対応は悪手でしょうね。


(もっと心から、若い男子らしくぶつかれば良かったんだ)

 率直な拒絶に単純に傷付き、目蓋を震わせている眼前の女子から確信を得た。

 直後、音を立てて膝を突き、ガクンと良子の首が倒れた。見下ろすアロンも女子を傷付けたことへの苦しみに追われた。

 櫛名良子は(暴走気味だが)純粋なのだ。

 性的興奮を覚えたのは確かなようだが、それが許されることなのか分からず葛藤し、このように支離滅裂となっているのだ。

 他者、特に好意を抱いた男子に対する適切な歩み寄り方など分からない、不器用な女子なのだ。

「ま、気付いたところでもう遅いんだけどね」

 意を決した良子が真っ直ぐアロンを見つめ、両手を前に出してきた。

「ガッ⁉」

 ゆったりとした動作だったが、これまでと比べ物にならないほど力が増しており、首を掴まれたアロンはそのまま後ろに倒れた。

「そう、もう遅いのです。ここまで来たからにはいただく他ありません」

 跨り、首を絞める良子の握力は、それでも可憐な女子のもの。細い腕を強引に剥がし、分からず屋の頬に一発入れることもできるかもしれない。

 しかし、それはアロンにはできないことのため、絞首により両目が上転してでも口角を浮かべていた。

「あなたは!」

 涙を浮かべたのは良子の方。そんな、自分がどうしてこんな真似をしているのかもよく分かっていない、いたいけな女子に暴力を振るうという選択肢はないのだ。

 抵抗はしても反撃ができない男。それが蝋木亜路の性。

「がっ……あぁ」

 段々と顔から生気が抜けていく。抵抗する力もなくなり、一方的な絞首で生殺与奪の権利を奪われた。

 何も考えられなくなっていた。このまま死ぬのかも、改めて陵辱されるのかも、彼女の表情さえもぼやけて見えない。

 意識が薄れていく。その最後、アロンの胸に残ったのは……。


 ――朝パフェ、食べさせたかったのに。


 自分があの子のためにできることなどそれしかないから、それくらいはしてやりたい……という使命感ではなく、ただ、あの子の喜ぶ顔、幸せな表情を見ることが今の自分にとって最上の幸せハッピーだっただけ。

 願い、叶わず、それでも願って、徐々に青い目蓋を閉じていった。

 際、教室の窓辺が爆発した。


 巨大な得物を振って煙を払い、小さきシルエットが姿を現す。

 コッ……コッ……と、ブーツの音が鳴り響く。アロンにとっての福音となり、薄れつつある意識の中で確かな安らぎを感じた。

「迎えに来たぞ。我が同罪の冒涜者」

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