第三章 櫛名良子(後編)
良子、やばい子 Ⅰ
扉を開くと、すぐそこに件の女子が立っており、アロンは言葉を失った。
浅尾たちと話す際は気品に溢れ、包容力すら思える振る舞いをしていた櫛名良子が、今は無の表情でこちらをジッと見ている。
沈黙に耐えられなくなったアロンが、櫛名さん、どうして、などと言おうとした刹那。
「アロン君、どうして逃げてしまったのですか?」
無どころか凍り付く眼差しで問われた。
(まずい……何かがまずい!)
アロンは今すぐ扉を閉め、保健室のどこかに身を潜めたい衝動に駆られたが、中の者にドッと背中を押され、拒絶される形となった。
頭から良子の胸に飛び込みそうになったものの、爪先の力で踏み止まり、扉を何度も叩いた。一旦は驚くも、恍惚とした表情を見せた良子から目を背けるように。
「実真先生!」
実真は屈託のない笑みで扉を、鍵をも閉めた。この危機を実真の助けなしで切り抜けなければならなくなったのだ。
「ふざけるな、あの女!」
扉を何度も叩くアロン。頭に血が昇り、いっそ扉を壊してしまえば、あの飄々とした態度を乱すことが叶うだろうか……と邪心が芽生えつつ、冷たいようで、溶かされるほどの熱視線を背中に浴びてハッとする。
恐る恐る、視認済みとはいえ、恐怖心が生んだ幻かもしれない可能性に賭けて振り返るも……。
「櫛名さんだねぇ」
アロンはダラダラと粘っこく感じる汗を溜めた。
「改めて問います。アロン君、どうして大人しく捕食されて……コホン。どうして逃げてしまったのですか?」
「……」
櫛名良子は仕留める者の目をしていた。
美しい漆黒の長髪も、今では戦慄を誘う悍ましいもの。何と言ってもここは夜の校舎。扉のガラス窓から射す薄い白光と、廊下の非常灯しか便りがなく、怯える自身の心がそのまま世界に反映されたようで、どこにも希望を見出せずにいた。
親切なようで、結局は裏切った実真への憎悪が増し、現実から逃避するように扉を叩く。
「先生! 開けてください! ほら、ノックしてるでしょうが! よっ、七界最高の女! 尊敬してますから! ホラー駄目なんです僕! お願いします! 開けろこの魔女!」
いくら扉を揺らし、求めたところで、耳をくすぐる彼女の声音は返ってこなかった。
アロンは、実真先生に当たるのはお門違いなのだろうと気付きながら、あまりにも運命に翻弄されっ放しなのが悔しく、扉を支えにして項垂れた。
「実真先生を恨むのは間違っていますよ、アロン君」
背後の声音も心地良いものだが、それで安心できるわけもなく、却って熱い頭が冷めた。
「君はどういうつもりで……」
振り向くこともできないアロンに、良子はあくまで印象通りの『櫛名良子』のまま語り掛ける。
「実真先生は両方の味方をしてくれたのです。アロン君と私の。先に関係を築いたのは私ですし、アロン君に肩入れする理由もないはずですけど、それではあまりにもアロン君が不利だから、これまで匿ってあげていたのです。そして――」
ビチャ! ビチャ! ビチャ!
生き生きとうねる何か。背後に現れた未知の脅威に唾を飲み込む。
「今、このような状況になっているということは、頼みのドロシーさんも間に合わなかったということです。残念でしたね。彼女であれば私を止められたかもしれないのに」
(君にドロシーの相手が務まるものか)
と、見栄を張りたいところだったが、足元から太く長い影が浮かび、それらがうねる音に合わせて揚々と踊り出すと、アロンはうっかり漏らしそうになった。
「……実真先生も、櫛名さんも、どうして僕の遠い従妹について知ってるのかな」
「ドロシーさんはあまりにも目立つ存在ですからね。特殊な手段を用いずとも知るきっかけは沢山あります。アロン君の従妹ではなく、悪魔ということも」
「まさか、君もモールに――」
振り返ろうとしたが、良子の一歩目の方が速かった。
良子は体を密着させ、アロンの右手首を掴んだ。外見通りか弱い女子の力で、乱暴になれば振り解くことも可能に思えた。
しかし、良子の空いている左手がアロンの首元に素早く入ると、反撃に転ずるのが不可能となってしまった。
良子の両目は、いつからか桃色の蛍光を放っていた。
左手は腕ごと変態化し、脳裏に焼き付いて離れない、赤黒い触手となった。
「これ……は……」
青ざめるアロンだが、少なくとも絞殺するつもりはないよう。近過ぎて見えにくいが、これまでの(良子の後ろにもいる)タコ脚と比べて鋭利な触手で、吸盤を除けば研ぎ澄まされた一本の剣みたく煌めいている。
喧嘩の覚えはあれ、生死を分ける戦いの覚えなどアロンにはない。紳士と評されるほど『規格外の何か』を受容する才能ならあり、それによりドロシーたち『七匹ノ悪魔』を受け入れられている。とはいえ、彼女らの領域に立ち入る術など持ち合わせておらず、欲することもない平和主義の男子高校生だ。
そんなアロンでも受容が間に合わず、逃げ、見つかり、このように追い詰められている。ドロシーがいかに素直で潔い子だったかを再認識するほど、櫛名良子が何を考えているのか分からない。次の瞬間にも喉斬りを仕掛けてくる恐れがあり、それに抗う力などないアロンは段々と死を近くに感じ始める。
「動かないでください!」
「動けんわ!」
自分もヤケになっているのか、思わず正当なツッコミを入れてしまった。
絶体絶命な反面、保健室の前で女子と密着している現状がシュールに思えて気が抜ける。夜の校舎なんて考えただけでその晩は眠れなくなるアロンだが、いつの間にか凍るような恐怖心からも脱却していた。
贅沢な体験でもあるからだ。櫛名良子はやばい子だが、実真や生徒会長、副会長らと、文化祭の目玉『ミス卍田第一コンテスト』で競り合えるほどの美女に違いない。良子がミスコンで奮闘する姿を想像し、つい口元が緩むと……。
「ふぅ……ふぅ……ふぅ……」
美女とはかけ離れた、興奮の鼻息を直に受けた。
「え?」
「動かないでください!」
廊下に響き渡るほどの注意をも直に受けた。
「……」
仕留める者というのは誤解だったかもしれない。アロンは更なる違和感に見舞われ、先生もこの子も駄目なら……と、もう何時間も待たせてしまっている少女の無垢な笑顔を脳裏に浮かべた。
(ドロシーに何て謝ろう。まだモールにいるのかな。流石に帰ったかな。そういえば、連絡――)
「今、私のことを変な子だと思いましたね?」
「いや、やばい子だとはホームルームよりも前から思っていたけど……」
「随分冷静ですね。状況が呑み込めていないのですか?」
アロンの喉スレスレまで触手の刃が迫る。背中を擦る彼女の胸など気にしていられないほどの危機なのだ。
「実真先生より、君を呪う方が良いかな?」
「……ウフフフ! アハハハハハハッ!」
抵抗ではなく性分として屈服していない意志を言葉にしたが、却って良子を刺激することとなった。
長い黒髪はそれほど静かに流れているのに、良子の背後に控えていた六本のタコ脚は溢れるように激しく伸び、天井を突き破った。良子の大笑も合わさり、アロンの胸へ、鼓膜から浸食が開始された。
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