ドロー・シーカー Ⅲ

「君、大丈夫か⁉」

 少女のように潮騒を上回る声で叫んだつもりだが、全く届かなかった。

 大型犬の群れが一箇所に集中する光景。それも海岸になんて『犬 たくさん 癒し』で検索しても見られないはず。現にアロン以外は固まっている。

 犬が元は人に飼われていたものではなく、弱肉強食の理を生き永らえてきた種だと思うと、無謀な挑戦ではないかと背に冷たいものを感じる。

 それでも止まれなかった。ヒーローになる気でいたのに、咄嗟に臆して引き返すなんて恥ずかしいからだ。

「どいてくれ!」

 腕をまさぐり入れ、一歩ずつ犬の海へ侵入する。もし少女が既に手遅れなら、次の獲物は自分になる。それも自ら飛び込んできたのだから、これでは誰も恨めない。

「君、少女! どこにいる⁉ 手を伸ばせ!」

 あちこちを舐められ、噛まれながら群れをかき分けていくが、アロンもいよいよ四つん這いになった。そうなると苛立ちが積もって「どけ、畜生ども!」と怒るも、犬たちには一切響かず。叫びは誰にも届いていない。アロンは頭が熱くなり、冷たくもなった。

「手を伸ばせるか! どこにいる⁉」

 少女の埋もれた地点には既に達しているはず。しかし、アロンの視界は大型犬の体毛、体毛、体毛。いかに寛容な職場でもこれで出勤するのは躊躇われるほどボロボロになった。遠目か、一匹ずつなら愛らしく思える犬という存在に敵意を覚える。

「む、誰かいるのか?」

 厚い壁が阻むも、その先から声が聞こえた。

「大丈夫か! 助けにきた!」

「この感じ……」

 襲われた少女だが、やけに冷静な声音でいる。それに安堵するも、救助の自分こそが救助される少女より取り乱していることに気付くと、伝染して冷静となり、怒りが忘れ去られた。

「これ、助けなくても良かった?」

「おお! 助けにきてくれたのか、我が同罪の冒涜者!」

「冒涜者? おっ」

 少女に纏わりついていた大型犬たちが一斉にアロンへ向いた。

 ようやく存在を認識された威圧感。それが一斉にだ。先に感じた獣の本質を思い出して「まずい」と零すも、引き返すことなどできない深さにいる。

 大型犬たちに乗っかられ、遂に身動きが取れなくなった。

 砂を口に含んでしまい、立ち上がれないプレス。これほどの苦痛から少女を解放できたのなら上出来か、と苦笑する余裕もない。

 大袈裟か迫真かも分からず、終わる、と直感したアロン。悲運に抗う熱はとうに失せており、「お節介の末路?」なんて思うばかりだが……。

「そんなことはない」

 と、今の自分には眩しい、どんなことも前向きに捉えていけるような、芯のある声が確かに聞こえた。

「今、我が特性を解く」

 音も光もなかったが、まるで大波に呑まれたような、透明の波紋を肌に感じた。

 すると、大型犬たちが、大型犬にしてはか弱い、ピー……ピー……という声を鳴らして散開した。大型犬たちは一匹たりとて少女のペットではなかったらしい。あり得ない光景に立ち尽くしていた人々や、今さっき海岸に到着した人のもとへ駆けて行った。

「何だったんだ……」

 尻もちを着くアロンだが、しばらく立ち上がれなかった。

 意味不明で顔を上げると、とても襲われていたようには思えない少女の尊顔があった。ただし、魔法か何かで大群を払いのけたにしては、尊顔も装いも毛玉だらけとなっており、つい笑ってしまったが。


 四百メートル先の超巨大未確認生物が惨めになるほど、皆して大型犬大集合に心を釘付かれ、未だ立ち尽くしている者も多くいた。

 アロンは立ち上がり、砂や毛玉を払って少女を窺う。一方、少女は汚れを一切気にせず、瞬きもせずアロンを見つめていた。

「えっと、助けようと思ったんだけど、むしろ助けてもらったみたいだ。どうもありがとう」

「気にするな。というより、あれは仕方ないのだ」

 少女は脇腹に手を添え、鼻を鳴らした。

「私の特性なのだ。解除せずそのままにしておくと、さっきのように獣を寄せ集めてしまう。もし周囲にワンコより強大な獣が多く存在していたら、私は無事でも冒涜者や民たちは一大事であったろうな!」

「民……」

 何というか、独特な女の子だなぁと、ぼんやり思う他なかった。

(ま、身内のノリとか、自分の設定ってあるよね)

 悩んだ末、目を逸らす選択をした。

 腕時計を見ると、バイト先へ向かう時刻になっていた。この何とも言えない、苦痛ではなく愉快なほどだが、不思議な時間に別れを告げるための突破口を見つける。

「君はここで何を? 散歩だったら大失敗だろうけど」

「そういう冒涜者こそ何をしている? まさか単騎でアレに挑むつもりか?」

「アレ? ……ああ」

 少女が指差した先には超巨大未確認生物。

「まさか」

 アロンは笑んだ。

「僕は蝋木亜路。これからバイトだけど、時間があったからここで暇を潰していたんだ」

 缶を落としたのはどの辺りだったか、なんて考えながら名乗った。

「君は?」

 自然に問うも、そんな、視線があちこちに流れるアロンにカフェイン超過多の風が吹く。

「よくぞ聞いてくれた! 遅いぞ、我が同罪の冒涜者!」

「その、さっきから何か聞かない言葉が――」

 パッと満開の花みたく咲く少女の声は、やはり潮騒を容易く覆す。


「私は祖たる魔王が死した後に誕生した新たなる七界の悪夢にして宵闇の覇者『七匹ノ悪魔』の最終最強の第七匹目! 名をドロシー! 今宵(昼前)この魔都に顕現し、私に仇為す者、傅かぬ者に身の毛のよだつ恐怖を植え付け、運命を支配するためにやってきた深淵の探求者であぁるっ‼」


 舞い踊る身ぶり手ぶり。背後の海面が爆発したような演出は幻覚だろう。少女は、決まった、と言わんばかりの満ち足りた表情を浮かべている。

「ごめん、潮騒が」

 アロンはとぼけて逃れようとしたが、

「何度も名乗るものじゃない!」

 と、恐るべき存在を早速怒らせたのだった。小動物みたいな威嚇を添えて。

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