ドロー・シーカー Ⅱ

 道路から海岸へ下りる階段。ここまで来ると、潮騒が車や人々の立てる音を全て潰してくれる。

 天候はまずまずの晴れ。春先で散歩にもうってつけだが、散歩好きならよっぽどの豪雨でない限り敢行するかと、ぼんやり思う。

 卍田市の四月上旬は厚めの上着を一枚重ねるくらいが丁度良い……という経験則に囚われていたため、コートを着ていると少し蒸れる感じがして、マンションを出て間もない頃から後悔を引きずっていた。

「寒っ」

 それでも海岸とは永久の避暑地。スニーカーを砂浜につけると段々ひんやりとしてきた。波に濡れないギリギリで止まり、途中で買った飲み物のタブを外す。バイパーボルトという、世界で最も人気のエナジードリンク。愛飲しているわけではないが、たまに飲みたくなる魅力があり、土曜日のバイト前などは爽快にカフェイン摂取をしたくなる衝動に駆られるため丁度良い。

 マンタビーチの四百メートル先に位置する海面、遠近法により近いようにも思え、やっぱり遠いタコ脚を見据えて一服。

「冷たっ」

 こうすることで、あの惨劇から目を逸らさずに立ち向かえている気になれる。

 ザーン……。ザーン……。

 海に近いと、街の喧騒どころか海岸にいる人々の話し声すらミュートとなる。潮騒だけならむしろ静寂とも取れるくらいだ。背後に人の気配をいくつも感じるため、孤独に寒気がなくて良い。慣れた場所だが、それでも毎回清々しい思いに浸れる。

 群衆や喧騒が嫌いなわけではない。妹の惨死を目の当たりにした後でさえ、自分を囲う世界に変化がなかったことにはむしろ感謝を覚えたほどだ。

 嫌悪ではなく畏敬の念。超巨大未確認生物さえも許容できてしまう卍田市民の懐、この星の大半を占めているらしい青い領域の果てしなさに頭が上がらないのだ。


 ――わははは! くすぐったいぞ、ホーリーフィンガー!


「繁華街に現れていたらこうはならなかった。運が良い」

 ここで最も賑わっている街並みを思い、独り言を呟く。もし卍田市の中心に出現していたら、いくら卍田市が紳士淑女の都でも共存は認められなかったはずだ。

 突然の出現も、偶然そこが海岸から遠い地点だったのも、何か理由があるかもしれないが、それ以上の疑惑がアロンにはある。

「みんな、とっくに洗脳されてたりして」

 アレについて考えるなら避けては通れない喫緊だ。卍田市民や、一先ず卍田市警に一任する方針を取った政府が寛容だからではなく、寛容にならざるを得ない手を施されていたら……と。

 アロン、失笑。本当に卍田市が、世界が手遅れだったのなら、尚更どうしようもないのだからと、考えるのも無駄と判じた。


 ――む、主人が嫉妬の眼差しで見ているぞ。いいのか、サムライストーム。


 アロンの日常に変化の兆しは訪れない。

 変化しないからこそ、周囲で変化が生じると、自身も驚くほどの冴えを発揮するのだ。

「……え?」

 ここには潮騒と自分の立てる音しかないはずだった。快活な少女の戯れる様子が、信じられないほど鮮明に聞こえてくるなどあり得ないことだ。

 声に振り向くと、実際に少女が二匹の大型犬と戯れていた。

 マリーゴールド色の、襟足の跳ねた短い髪が特徴の少女。フード付きのコートも、ダメージ加工された膝丈までのスカートも、編み上げのロングブーツも、全て黒基調のビジュアル系。二つか三つ歳下という印象通りなら、卍田女子にしては珍しいコーディネートだ。


 ――全く甘えん坊だなぁ、お前たちは!


 そして、耳に残る誇大的な語りと、大型犬たちの強烈な名前。ついジッと見てしまったが、頬を舐められ、無邪気に笑う少女には癒しを感じた。アロンだけでなく、周囲の人々も口元が緩んでいる。

(小さな幸せハッピーなら、こういうものかもしれない)

 昨日、養護教諭に言われたことを思い出し、胸だけは確かに夏の時間へ進んでいった。

 しかし、視線を四百メートル先の怪物に戻した隙に……。


 ――ニャアアアアッ⁉


 今度は絶叫が鼓膜を刺激した。

 再度振り向くと、明らかに異変が起きていた。さっきまで二匹しかいなかったはずだが、少女と戯れる大型犬の数が三匹、四匹……どこから湧いてきたのか、見る間に数を増して少女に集っているのだ。

 ワン! ワンフ! ワン! ガウ! ガルルッ!

 いよいよ二十匹くらいまで増え、それらが一箇所に固まる光景に、アロンも人々も呆然と立ち尽くす。あれほど気持ち良く大型犬とじゃれ合っていた少女が何も発しなくなり、助けを求めるように伸ばした右腕も、マリーゴールドの頭も全て犬の海へ沈んでいくと、アロンは居ても立ってもいられず、

「いや、まずいだろ!」

 缶を捨て、獣の海へ駆け出した。

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