第46話 逃走
東の空が不気味なオレンジ色に燃え上がっている。
王都リュンカーラの方角だ。
誰もが異常事態を理解したが、アニスたちディンレル王国の9人の魔女はガーデリア領から一歩も動けずにいた。
ガーデリア領もまた、地獄の釜が開いたかのような惨状に見舞われていたのだ。
アニスたちがリュンカーラへの転移を試みている間に、どこからともなく現れた異形の獣の大群。
そいつらはただの獣と呼ぶにはあまりにも凶悪で、鋭い爪と牙を持ち、禍々しい魔力さえ帯びている。
見たこともない獰猛さと、統率された動きで襲い来る魔獣の群れが、この地を蹂躙していた。
リュンカーラの炎上とは異なり、ガーデリアは阿鼻叫喚と化していた。
城壁の外で野営していた、ブロッケン将軍配下のディンレル兵数千が最初の犠牲。
突如として雪原から現れた魔獣の津波に、彼らは為す術もなく全滅する。
武器を手に取り、必死に抵抗を試みる兵士たちだったが、魔獣たちの圧倒的な数と力の前には無力でしかない。
喉笛を食い破られ、爪で腹を裂かれ、吐き出される毒液や炎に焼かれ、兵士たちの絶叫は次々と断末魔の悲鳴へと変わり、ムシャムシャと喰われるのみ。
アニスたちがガーデリアの惨状を目撃した時には、すでに全てが終わっていた。
かつて豊かだった領都は見る影もなく破壊され、ガーデリアの兵士も、領主も、民も、一人残らず魔獣たちの餌食となっていたのだ。
食い散らかされた骸が雪原に転がり、血と臓物が大地を赤黒く染めている。
「何なの……これ……一体何が……! どいて! 人を喰らうな!」
アニスの怒りに満ちた叫びが死臭漂う大地に響き渡る。
それに反応したかのように、生き残りの魔獣たちが新たな獲物を見つけた、とばかりにアニスたち9人の魔女へと殺到した。
数では圧倒的に不利。
けれど相手は知性を持たぬ獣。
9人の魔女たちは怒りと悲しみを魔力に変え、連携して魔獣郡を迎え撃つ。
炎が舞い、氷が走り、雷が轟き、風が薙ぎ払い、光が浄化し、闇が絡め取る。
数時間に及ぶ壮絶な戦いの末、魔女たちは全ての魔獣を殲滅した。
だが勝利の達成感など微塵もない。
目の前に広がる、おびただしい死の光景。
タイムとフェンネルは戦いの最中、気丈に魔法を放っていたが、終わった途端にその場にへたり込み、嗚咽を漏らす。
凄惨な光景と異臭に、胃の中身を逆流させてしまう。
「先生……アニス様……もう、嫌……怖い……」
「なんで……どうしてこんなことに……? 私たち、もうリュンカーラのお城には帰れないの……?」
幼い2人の悲痛な声が痛々しく響く。
「リュンカーラの方角が……燃えている……」
チャービルが震える声で呟く。
「嘘だろ……! 王都で一体何が起こってるんだ! アリス様は⁉」
ディルも絶叫に近い声を上げた。
「くっ! アリス姫様! どうかご無事で!」
ローレルが叫ぶ。
「今すぐお側に! 先生! みんな! アニス姫様を頼みます!」
アロマティカスも決意を固め、ローレルと共に同時にリュンカーラへの転移魔法を試みるが、術式は構築されるそばから霧散してしまう。
「なっ⁉ どうして⁉」
アニスも慌てて試すが結果は同じだった。
強力な妨害結界か、空間そのものが歪んでいるのか。
(……最悪の筋書き、というわけだねえ……)
クレマンティーヌは内心の動揺を押し殺して冷静に状況を判断し、決断を下す。
「みんな、よく聞いておくれ。この獣たちは魔獣……おそらくは魔界から漏れ出してきたか送り込まれた存在さね。恐らくリュンカーラで起こっていることも、これと無関係ではない」
クレマンティーヌはかつて大神殿から聞いた、女神フェロニアが施したという魔界の門の封印に関する古い伝承を、簡潔に語る。
「これほどの大群が現れたということは……十中八九、魔界の門が開かれてしまった、ということだろうねえ。そうなると……残念ながら、リュンカーラは……もう……」
クレマンティーヌの言葉は、アニスたちに残酷な現実を突きつける。
誰もが言葉を失い、顔を伏せる。
「……今は西へ向かう。とこしえの森を目指すのさね。あそこにはエルフの女王フォレスタ様がいらっしゃる。彼女ならば私たちを保護し、力を貸してくれるかもしれない。辛いだろうが……生き延びるために、今は前へ進むしかない。ついてきておくれ」
クレマンティーヌの静かな強い意志のこもった言葉に、魔女たちは涙を拭い、顔を上げ、無言で頷いた。
「クレア……他の街や、村も……みんな、こんな風になってしまっているの……?」
アニスが震える声で尋ねる。
「……アニス。今は余計な詮索をする時ではないさね。私たちはただひたすらに西へ、とこしえの森を目指す。行くよ」
クレマンティーヌはアニスの肩を抱き、歩き出すよう促す。
こうして9人の魔女たちは、壊滅したガーデリアの地獄を背に、西へと向かって駆け出した。
やがて雪と灰が混じり合う荒野を、とこしえの森目指してひた走るアニスたち9人の魔女の行く手を阻むように、4つの禍々しい影が立ちはだかる。
前方には燃え盛る炎のような赤髪を持ち、マグマを思わせる肌をした巨躯の魔族イフリート。
隣には鋭い爪と牙を備え、白銀の毛皮に覆われた俊敏な四足歩行の人型魔族ヒューリー。
後方に、漆黒の肌に艶やかな金髪少女の姿をした魔族ガンニバル。
見るからに分厚い緑色の皮膚を持ち、巨大な一本角と一つ目を持つ巨人ゴドリッチ。
いずれも、魔界でも名うての魔族であり、全身からは下級の魔獣など比較にならない、濃密で邪悪な魔力が溢れ出ている。
(これは……相当な手練れ、いや、魔界の上位存在そのものだねえ)
クレマンティーヌは瞬時に相手の格を理解し、内心で舌打ちする。
魔界の門が開き、これほどの者たちが呼び寄せられたという事実に。
「何、あんたたち! 私たちの邪魔をする気⁉ どきなさい! どかないなら、敵と見なして討ち滅ぼす!」
アニスが恐怖よりも怒りを前面に出して叫んだ。
「いえいえ、アニス様。滅相もございません」
赤毛の巨躯、イフリートが意外にも慇懃な口調で応じるが、笑みを歪ませながら答えていく。
「我々はお迎えに上がったのです。我らが新たなる偉大なる主、魔王アリス様の妹君と才能ある側近の方々。さらには師であるクレマンティーヌ殿を、主の元へ丁重にお連れして盛大にもてなすために」
「初めて見る顔ばかりね。私はアリス姫様の側近、ローレル! 魔王? ふざけないで! アリス様が、あなたたちのような邪悪な存在と手を組むはずがない!」
ローレルが憤然として言い返す。
「その通り! 我々の心は常に女神フェロニア様の愛し子であるアリス姫様と共にあります! 魔王などという穢れた名を騙る存在、それに連なる者どもはアリス様の魂を汚す敵! このアロマティカスが滅ぼして見せます!」
アロマティカスが杖を大地に突き立てると、周囲の枯れ木や凍土から無数の蔓や根が蛇のように伸び、4体の魔族へと襲いかかり、巨体を縛り上げた!
そこへ、ローレルが渾身の雷魔法を放つ!
「裁きの雷よ!」
凄まじい電撃が蔓を伝い、魔族たちを眩い光で包み込んだ!
だが雷光が収まった時、魔族たちは黒焦げになるどころか、傷一つ負っていない。
蔓を引きちぎり、余裕の表情で立っていた。
「ほう、人間の魔女にしてはなかなかの威力だ。だが、我々には届かん」
イフリートが嘲笑う。
「みんな、今のうちに早く逃げるさね! ここは私が食い止める!」
クレマンティーヌが叫び、魔力を高める。
「馬鹿言わないでクレア! あなた1人に任せられるわけないでしょ! 私も残る!」
アニスが反論し、クレマンティーヌの隣に並ぼうとする。
しかし……
「アニス様!」
マツバがアニスの返事を待たずに彼女の身体を抱え上げ、風のような速さで駆け出した!
「ちょっ、マツバ!」
「先生、頼みます!」
ディルとチャービルも叫び、タイムとフェンネルの手を引き、涙ながらにマツバの後を追う。
ローレルとアロマティカスは一瞬躊躇したが、師の覚悟を無駄にはできないと判断し、悔しさに唇を噛み締めながら、アニスたちを追って駆け出した。
「逃がすとでも思ったかね? 甘いねえ、人間は」
イフリートが灼熱の炎球を放ち、ヒューリーが音速でアニスたちに襲いかかる!
そこをクレマンティーヌが前に立ちはだかる。
彼女の周囲に複雑な紋様が浮かび上がり、イフリートの炎は虚空に吸い込まれるように消え、ヒューリーの突進は不可視の力場に阻まれ、大きく軌道を逸らされた。
「なにっ⁉」
「私の前で、私の弟子たちに指一本触れさせるとでも思ったのかい?」
クレマンティーヌは絶対的な自信を持って言い放つ。
彼女の瞳の奥から、底知れない魔力が揺らめきだす。
炎、氷、風、土、光、闇のあらゆる属性の魔法を内包し、更には神聖魔法の輝きすらも秘めている規格外の魔力のクレマンティーヌ。
4体の魔族は舌打ちと、高揚感に昂る。
地上に降り立ち、初戦で最高峰の相手を殺せる機会に感謝しながら。
アニスたち8人の魔女は、クレマンティーヌが稼いだ時間で、辛うじて魔族たちの追撃範囲から脱出することに成功した。
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