炎の鱗 -Ⅷ

「どうして……」

 離さないでって、言ったのに。

『精霊の光なんぞ、面白いもん仕込んでんじゃねーか』

「精霊を使い魔にしている友人がいてな、少し分けてもらった」

 杖の先は光の粉を降らすように、ちりちりと銀色に瞬く。

『精霊の連中は、精神を惑わす力を持った奴が多いか、ら、なあ』

 黒い羊ブラックシープは酒にでも酔ったように、あっちへふらふら、こっちへふらふらと千鳥足で歩き回る。

「お前の精神は錯乱状態にある。己の主が誰だかわからなくなっているし、己の魂の置き所すらあやふやだろう」

 ガラスの瞳で明後日の方向を見つめたまま、黒い羊はぽすんと音を立てて仰向けに倒れた。

「その魂をぬいぐるみから解き放ち、ミリィの元から消え去れ」


 黒い羊ブラックシープの魂と魔力を表す、青い光の紋様が消えかかっている。持ち上げようとした蹄は力なく、廊下の床を叩いた。

 このままでは、彼の魂はミリィの元から離れていってしまう。

「……離さないで」

 それは何よりも叫びたい、願いだった。

「おねがいシープさん! 私の手を離さないで!」

 願いを命令に変えて、叫ぶ。

『離さないでじゃねえ!』

 刺繍一刺し分も口の造形がないぬいぐるみが、それでも声を張り上げた。

『そんな命令じゃ、聞けねえ。命じる、には、まず、だ、い、じ、な事が、ある』

 黒い羊ブラックシープはまだ呂律がうまく回っていない。けれどミリィに告げる、『だいじ』なことを。

『離さないで、じゃなくて、お前が離すな!』

 ありったけの想いが、ガラスの瞳に再び魔力の青い輝きを灯した。

『ミリィが俺の主人だ、ミリィが俺の魂を掴んで離すなってんだ!』

 縋り付くのではなくて。

 その手を自分から掴んで、決して離すな。


『それから、自分自身の手綱も自分で掴んで離すなよ。誰にも握らせるな。たとえ教師だろうが兄貴だろうが、友達だろうが掴ませるな』

 たとえ兄や友の、ミリィを想う気持ちが確かであっても。譲ってはならない時だって、あるのだ。

『さあミリィ。命ずるなら、もうちょっとマシな命令をしてみな』

 離さないで、じゃなくて。

 私は私の大切なものを、離したりなんてするものか。

「……黒い羊ブラックシープ、とっとと立ちなさい!」

 ばつん、と何かが弾けるような音がして、黒い羊ブラックシープから光の欠片らしきものが飛び散った。

『いい命令だ、わが主よ』

 ゆらりと立ち上がり、使い魔は主の敵の前に立ちはだかる。

黒い羊ブラックシープさん、天井近くまで跳んで!」

 魔力を流した後ろ足は、青い光を帯びながらバネのように勢いよく跳ねる。

 あまりにも珍しい、激しい感情をたぎらせる妹の姿に、ジグは一瞬気をとられた。更に精霊の光を過信していたゆえ、完全に反応が遅れる。

「後ろ足に思いっきり魔力をため込んで、そのままフレイムちゃんの頭に思いっきり蹄落とし!」

 黒い羊ブラックシープの後ろ右足で、魔法の光が増した。雷光を纏うように。まるで青い稲妻を落とすごとく、羊の蹄が炎の鱗フレイムスケイルの脳天を直撃した。


「フレイム!」

 きゅう、と細い鳴き声と小さな炎の名残のようなものを吐き出して、炎の鱗フレイムスケイルはジグの腕から転げ落ちた。杖の光はすっかり潰え、どうやら一回限りのお裾分けだったらしい。

「兄さん」

 炎の鱗フレイムスケイルを抱きかかえるジグに、ミリィは真正面から向き合った。

「私は絶対、黒い羊ブラックシープさんの主人として、その手を離さないよ」

 ジグは眼鏡の下の瞳を、悔しそうに細めた。

「……授業はちゃんと、先生の指導通りに取り組め」

『兄さんよ、今、ミリィはちゃんと命令できてただろ?』

 黒い羊ブラックシープの言葉にジグではなく、ミリィが答える。

「兄さんや先生の言うこと、わかった、気がする」

『いいか、ミリィ。確かに主人と使い魔の絆が深まれば、言葉以外の意志疎通方法をとったりするし、命令するまでもなく使い魔が自身の判断で動くことが増える。だがな、それは絶対じゃないんだ』

「さっきみたいに、使い魔が自我や判断力を失うこともあるしな。どんなに使い魔が優秀に育っても、信頼関係が強くなっても。それでも主人が使い魔をリードする、その前提は崩れないし、そのために主人は、まず自分が的確な指示を出せるよう鍛錬する。それを怠ってはならないんだ」

「……はい」

 二人の話に、ミリィは今度こそ心から頷いた。

 何があってもミリィは黒い羊ブラックシープの主人で、導かなければならないのだ。


『まあいけ好かない教師や兄貴の言うことを、聞きたくない気持ちはわからんでもないが? 正しい指導してもらうことや、忠告を受けることは、主導権を握られることとはまた別だ。自分は未熟だとわかったんなら、ありがたく学ばせてもらえ」

「いけ好かない?」

 黒い羊ブラックシープのガラスの瞳と、兄の自分と同じ色の瞳の間に火花が散ったのを、ミリィは見た気がする。

 いつもみたいにおろおろしていたら、ジグは小さくため息を吐いた。

「……寮に帰る」

 ジグはミリィに背を向けて、中等科の校舎へと戻っていく。目を回したサラマンダーが、肩の上で伸びていた。

「あの、兄さん。困らせて、ごめんなさい」

 思わず手を伸ばしたら、遠ざかっていく足音が止まった。

「ミリィが困ってないなら、とりあえずは、良い。……僕の方こそ、悪かった」

 一度も振り返らずに、兄の背中は渡り廊下の向こうへ消えていった。

 兄との衝突は、苦しくもあったけど。けれど得たものだってあった。

(アントンやロザリオとも、ちゃんと話さなきゃ)

 ずっと自分のことばかりだったけど。心を通わせる難しさは、ずっと痛感しているけれど。

 きっと今こそ、分かり合えることがある。

 そう思いながら、ミリィは寮へ急いだ。








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