炎の鱗 -Ⅷ
「どうして……」
離さないでって、言ったのに。
『精霊の光なんぞ、面白いもん仕込んでんじゃねーか』
「精霊を使い魔にしている友人がいてな、少し分けてもらった」
杖の先は光の粉を降らすように、ちりちりと銀色に瞬く。
『精霊の連中は、精神を惑わす力を持った奴が多いか、ら、なあ』
「お前の精神は錯乱状態にある。己の主が誰だかわからなくなっているし、己の魂の置き所すらあやふやだろう」
ガラスの瞳で明後日の方向を見つめたまま、黒い羊はぽすんと音を立てて仰向けに倒れた。
「その魂をぬいぐるみから解き放ち、ミリィの元から消え去れ」
このままでは、彼の魂はミリィの元から離れていってしまう。
「……離さないで」
それは何よりも叫びたい、願いだった。
「おねがいシープさん! 私の手を離さないで!」
願いを命令に変えて、叫ぶ。
『離さないでじゃねえ!』
刺繍一刺し分も口の造形がないぬいぐるみが、それでも声を張り上げた。
『そんな命令じゃ、聞けねえ。命じる、には、まず、だ、い、じ、な事が、ある』
『離さないで、じゃなくて、お前が離すな!』
ありったけの想いが、ガラスの瞳に再び魔力の青い輝きを灯した。
『ミリィが俺の主人だ、ミリィが俺の魂を掴んで離すなってんだ!』
縋り付くのではなくて。
その手を自分から掴んで、決して離すな。
『それから、自分自身の手綱も自分で掴んで離すなよ。誰にも握らせるな。たとえ教師だろうが兄貴だろうが、友達だろうが掴ませるな』
たとえ兄や友の、ミリィを想う気持ちが確かであっても。譲ってはならない時だって、あるのだ。
『さあミリィ。命ずるなら、もうちょっとマシな命令をしてみな』
離さないで、じゃなくて。
私は私の大切なものを、離したりなんてするものか。
「……
ばつん、と何かが弾けるような音がして、
『いい命令だ、わが主よ』
ゆらりと立ち上がり、使い魔は主の敵の前に立ちはだかる。
「
魔力を流した後ろ足は、青い光を帯びながらバネのように勢いよく跳ねる。
あまりにも珍しい、激しい感情をたぎらせる妹の姿に、ジグは一瞬気をとられた。更に精霊の光を過信していたゆえ、完全に反応が遅れる。
「後ろ足に思いっきり魔力をため込んで、そのままフレイムちゃんの頭に思いっきり蹄落とし!」
「フレイム!」
きゅう、と細い鳴き声と小さな炎の名残のようなものを吐き出して、
「兄さん」
「私は絶対、
ジグは眼鏡の下の瞳を、悔しそうに細めた。
「……授業はちゃんと、先生の指導通りに取り組め」
『兄さんよ、今、ミリィはちゃんと命令できてただろ?』
「兄さんや先生の言うこと、わかった、気がする」
『いいか、ミリィ。確かに主人と使い魔の絆が深まれば、言葉以外の意志疎通方法をとったりするし、命令するまでもなく使い魔が自身の判断で動くことが増える。だがな、それは絶対じゃないんだ』
「さっきみたいに、使い魔が自我や判断力を失うこともあるしな。どんなに使い魔が優秀に育っても、信頼関係が強くなっても。それでも主人が使い魔をリードする、その前提は崩れないし、そのために主人は、まず自分が的確な指示を出せるよう鍛錬する。それを怠ってはならないんだ」
「……はい」
二人の話に、ミリィは今度こそ心から頷いた。
何があってもミリィは
『まあいけ好かない教師や兄貴の言うことを、聞きたくない気持ちはわからんでもないが? 正しい指導してもらうことや、忠告を受けることは、主導権を握られることとはまた別だ。自分は未熟だとわかったんなら、ありがたく学ばせてもらえ」
「いけ好かない?」
いつもみたいにおろおろしていたら、ジグは小さくため息を吐いた。
「……寮に帰る」
ジグはミリィに背を向けて、中等科の校舎へと戻っていく。目を回したサラマンダーが、肩の上で伸びていた。
「あの、兄さん。困らせて、ごめんなさい」
思わず手を伸ばしたら、遠ざかっていく足音が止まった。
「ミリィが困ってないなら、とりあえずは、良い。……僕の方こそ、悪かった」
一度も振り返らずに、兄の背中は渡り廊下の向こうへ消えていった。
兄との衝突は、苦しくもあったけど。けれど得たものだってあった。
(アントンやロザリオとも、ちゃんと話さなきゃ)
ずっと自分のことばかりだったけど。心を通わせる難しさは、ずっと痛感しているけれど。
きっと今こそ、分かり合えることがある。
そう思いながら、ミリィは寮へ急いだ。
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