炎の鱗 -Ⅶ
「……昨日はごめんなさい」
翌日の放課後、ロザリアは声をかすれさせながらそう言った。
昨夜ロザリアは、泣きながらベッドにもぐりこんでしまった。ミリィは朝一番でロザリアと話そうとしたものの、彼女はひとりで食堂に行ってひとりで教室の席に座り、ひとりで寮に帰ろうとしていた。
単独行動はミリィも慣れていたし
とにかく謝ろうと、校舎を出る直前で呼び止めた。無視も覚悟の上で振り向くのを待っていたら、顔を合わせた途端、ロザリアの方から謝ってきたのだった。
「私こそ体当たりなんかして、ごめんね」
先に謝らせてしまった申し訳なさと、圧倒的な安堵を感じながらミリィも頭を下げた。
「思わず、かっとなってしまったの。ミリィちゃんがアントンさんをかばうから」
昨晩の涙も乾いて目元の腫れも引いている頃だろうに、重い瞼の下から覗く瞳は暗い。ミリィは思わず目をそらした。
「アントンは友達、だったし。アンソニーが部屋に来たのも、もしかしたらアントンなりに……」
「ミリィちゃんは、アントンさんが嫌いなんじゃないの?」
嫌い。
その言葉の、あまりの強さにびっくりする。存在を拒絶する感情を、アントンにぶつけるなんて。
「嫌いなんかじゃないよ! ちょっとだけ、気まずかったというか。私が勝手に、アントンから遠ざかったというか……」
「嫌なことがあったんでしょう?」
確かに、でもそれは、自分の勝手で、アントンは悪くなくて。
「また仲よくしたら、同じように嫌な思いをするんじゃないの」
胸がちくりと痛む。
私はもう、『落ちこぼれミリィ』なんかじゃない。だけどアントンやクラスのみんなは、ミリィよりもう少し先に進んでいる。
誰よりも強い使い魔を手にしたから、それだけで全て挽回できるなんて都合のいい話はない。事実、先生は評価してくれないし、シープさんはミリィの手を離そうとさえしている。
「もうアントンさんと、仲良くしない方が良いと思うな」
だって傷つくからと、ロザリアの忠告はミリィを想ってくれたもの。
痛みとは違う息苦しさにも似たものが、胸に広がってゆくような気が、して。
『俺は、ロザリア嬢ちゃんと仲良くしない方が良いと思うぜ』
一瞬ロザリアとの間に横たわった苦い沈黙を、破るように言ったのは
『……って言ったらどうするよ』
ガラスの瞳が暗く光る。慣れないロザリアには、その目に何の感情も見いだせないかもしれない。ミリィだってまだ付き合いは浅いから、決して何もかもを理解できるわけでもないが。
青い瞳は怒っている。
『誰と友達でいたいかは、ミリィが決めることだ』
「私は……」
ロザリアの目元が歪む。また泣かせてしまうのではないかと、ミリィはひやひやとした。せっかく自分なんかと仲良くしてくれた子に捨てられるのも、捨てるような真似をするのも嫌だった。
だけど、じゃあ、どんなことを言えばいいのか。どんな風に心を決めればいいのか。今のミリィには全然わからない。
迷いはそのまま挙動に現れて、ミリィは視線をさまよわせる。昇降口の屋根を支える柱に目を止めたら、ちらりと小さな影が踊るのが目に見えた。
「え?」
ミリィが声を上げたら、睨み合っていた二人がこちらを向いた。ミリィの肩の上に、一匹ねずみが降り立つ。
『お、またねずみ?』
自分の頬のそばで髭をそよがすねずみを、ミリィは首だけ動かして見る。毛色は茶で、タグもついていない。
(アントンの子じゃない)
ねずみは使い魔としては下級で、授業でも初歩の初歩に扱いを学ぶ。だから主要なパートナーとしてではなくても、ねずみを使う者は多かった。
「あいつ、また使い魔で監視なんかして……!」
「待って、この子、アントンのねずみじゃ……」
クラスメイトを憎らしそうに『あいつ』呼ばわりするロザリアに、何をどう話せばいいのか。だってアントンでないなら、一体、誰が。
ねずみが耳元でチイチイと鳴く。人間の知る言葉ではないはずのそれが、ミリィの耳に短くも確実に人の名を伝えた。
――ジグ。
その名前を聞いた瞬間、ミリィの胸はいっぺんに締め上げられた。
ねずみはミリィの肩を降りて、校舎の中へと戻っていく。
ねずみの役割は道案内、他に難しい指示は受けていない。伝えたのは、使い魔を差し向けた者の名だけ。
ミリィはねずみの後を追いかけた。
『あっ、おい!』
「ミリィちゃん!」
背後から、ロザリアの呼ぶ声がした。彼女とちゃんと話をしたいけれど、正直それどころではなくなってしまった。
なんでこんな、悪いタイミングで。
ミリィは息を切らせながら、初等科校舎の西棟へと辿り着いた。西棟校舎一階の最西端にある、渡り廊下の前に立つ人影を見つける。
息を整えるように飲み込んで、ミリィは言った。
「兄さん」
『にいさんだあ?』
ミリィと同じ金の髪に緑の瞳。頼りない分穏やかな印象の妹と比べて、兄の方は厳しい雰囲気のある顔つきをしていた。角ばったレンズの銀縁眼鏡をかけているからかもしれない。中等科の指定色である、緑色のローブを纏っていた。
「ちゃんと来たな」
初等科と中等科を繋ぐ渡り廊下で待ち構えていた兄は、感情の窺えない表情と声で言った。
「なにか、ごよう、なの」
「お前がおかしな使い魔を従属させてから、話す暇がなかったからな」
ミリィの頭上で、
「おかしく、ないもん」
「おかしいだろう、ぬいぐるみだぞ? 中に入っている魂だって、得体が知れない」
ミリィは兄の言うことにいつも反論できない。年上だからという事を差し引いても、兄は頭も弁も回るから。考えも言葉もうまくまとめられない、伝えられないミリィはいつだって言い返せなかった。
「……おかしくったって、いいもん」
けれどこれだけは、譲れなかった。
「シープさんがおかしな使い魔だっていいもん! シープさんはクラスのどの子の使い魔よりも強くて、戦えて、勝てるんだから!」
「その勝ち方に問題があるって話だろう!」
ぴしゃりと言い放たれて、ミリィは身を固くした。
「授業で先生の言うことを無視しているらしいな。使い魔に命令を出さず、好き勝手戦わせていると」
教師が兄に告げ口したのか、噂が漏れ聞こえたのかは知らないが。なんて厄介なことに、とミリィは内心恨めしく思う。
「……出してるもん。戦ってって、お願いしてる」
「それだけで、主人の役割を果たしてるとでも?」
『そりゃそうだな』
奇妙な使い魔に立ちふさがられ、兄の片眉が跳ね上がる。
『はじめまして、わが主の兄上殿よ』
「……中等科一年、ジグ・リリーだ」
ジグは冷たい目で、
「ミリィの邪魔をしている自覚はあるのか、怪しげな魂」
ジグが言ったのと同時に、ローブの中からしゅるりと小さな影が躍り出た。左腕の上に、一匹の大蜥蜴が掴まっている。
『おお、兄ちゃんの使い魔はサラマンダーか』
炎を思い起こさせる朱い鱗。鋭い爪と牙。その姿は小さな竜のように見えなくも無い。
『そういや父ちゃんも、サラマンダーを従えてたって言ってたな?』
ミリィの記憶では父の顔ももはや朧気で、それよりも使い魔だったサラマンダーの姿ばかりが鮮明に焼き付いている。ミリィは父に抱っこされるたび、その大きな肩に乗っていることが多かったサラマンダーと目を合わせていたから。
ジグはサラマンダーの乗っていない右腕で杖を構え、
「間抜けな羊、ミリィとの契約を解除しろ」
「だっ、だめ! シープさんは私の大事な使い魔なんだから!」
叫びながら
「お前の子守りにはなっても、授業の役には立っていないだろう。素性も怪しいことこの上ないし、必要ない」
『ド正論だねえ、お兄ちゃん。でもなあ、契約の破棄はそんな簡単には……』
「なんで」
のらりくらりと兄の相手をしていた
「せっかく使い魔を持てたのに。私にだって、できたのに。なんでみんな、認めてくれないの」
契約は成った。ミリィと
彷徨う魂がミリィの元へ飛びこんできたことが、ただ偶然にもたらされた幸運だと言うなら。
「兄さんは、父さんから使い魔を引き継げたじゃない。学校に入るその時から、もう繋がり合った子が。私には最初からそんな子いなかったのに、ずるい」
父といつも一緒にいたサラマンダー。ミリィよりもジグよりも、母よりもずっと長く共にあっただろう。
そしてその全員の中で、ミリィが一番、父と過ごした日々が短い。
「兄さんは少しでも私より長く父さんと一緒にいたのに、使い魔までもらったじゃない!」
ぶつけられた言葉に、眼鏡の冷たいレンズの下で瞳が揺れた。
怒鳴られると思って、ミリィは身構える。けれどジグは瞼を固く閉ざすと、どこまでも冷静な声で使い魔に命を告げた。
「……行け、『
囁くように、命令を。
命じられたサラマンダーは、噛みつくような動作で大口を開けると炎を吐き出した。
『っと、あっぶね!』
「シープさん!」
ミリィはただ使い魔の名を呼ぶ。
『名前を呼ぶだけじゃなくてだなあ、命令をよこせっつってんだ!』
中等科に進むまで勉学に励んだジグは、すでに言葉少なに使い魔を操っている。本来なら、その姿こそ使い魔の主人が目指すものだ。
(だけどみんな、それじゃいけないって言う)
魔法使いの卵たちは、まだまだ学びの入り口よりほんの少し先に進んだ程度。ジグはミリィより三年先を歩いていて、初等科生ではまだ修練が足りない。
「兄さん、だめ! やめて!」
「お前の意見は聞いてない」
ジグの杖が、光を纏う。
炎をよけて体勢を崩した
操り人形が糸を引かれたように、不自然に
『……ああ?』
「シープさん?」
ふわふわの体に触れようとした、ミリィの手を。
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